太宰治 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
七月三日から南伊豆の或る山村に來てゐるのだが、勿論ここは、深山幽谷でも何でもない。温泉が湧き出てゐるといふだけで、他には何のとるところも無い。東京と同じくらゐに暑い。宿の女中も、不親切だ。部屋は汚く食事もまづい。なぜこんな所を選んだのかと言へば、宿泊料が安いだらうと思つたからである。けれども、來て見ると、あまり安くもない。一泊五圓以上だ。一日の豫定の勉強が濟んで、温泉へ入り、それから夕食にとりかかるのであるが、ビールを一ぱい飮みたくなつて女中さんに、さう言ふと、 「ございません。」とハツキリ答へる。けれども、女中さんの顏を見ると、嘘だといふことがわかるので、 「ぜひ飮みたいんだ。たつた一本でいいのですから。」と笑ひながら、ねだると、 「ちよつとお待ち下さい。」と眞面目な顏で言つて、部屋を出て行く。しばらく經つと、やはり眞面目な顏をして部屋へやつて來て、 「あの、少し値が張りますけれど、よろしうございますか。」と言ふ。 「ええ、かまひません。二本もらひませう。」と、こちらも拔け目がない。 「いいえ、一本だけにしていただきます。」 いやに冷淡に宣告する。 このごろは宿屋も、ひどく、おたかく
太宰治
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