田中貢太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
壮い漁師は隣村へ用たしに往って、夜おそくなって帰っていた。そこは釜石に近い某と云う港町であったが、数日前に襲って来た海嘯のために、この港町も一嘗にせられているので、見るかぎり荒涼としている中に、点々として黒い物のあるのは急ごしらえの豚小屋のような小家であった。それは月の明るい晩であった。壮い漁師はその海嘯のために娶ったばかりの女房を失っていたが、心の顛倒がまだ収まらないし、それに女房を失った者もざらにあるので、一種の群衆心理でそれを諦めていた。 (みんな、同じことだ) それでも壮い漁師は、その女房がまだどこかに生きていて、ひょっこりと帰って来そうに思われた。 (運じゃ、運がよかったら、助からんこともない) 浪の音が穏かにざあざあと云うように聞えて来た。それとともに、波の静な海がどうしてあんなになるのだろうと思った。その考えはやがて海の上を駛っている船へ往った。 (何かにつかまって、泳いでいるうちに、助けられたかも知れない) そうだとすると、五日や十日では判らない。壮い漁師は小づくりな眼に黒味の多い細君の顔を眼前に浮べながら歩いた。 道の両側になった樹木の枝には、凄惨な海嘯の日の光景を思
田中貢太郎
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