田中貢太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
憲一は裏庭づたいに林の方へ歩いて往った。そこは栃木県の某温泉場で、下には澄みきったK川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。松杉楢などの疎に生えた林の中には、落ちかかった斜陽が微な光を投げていた。そこには躑躅が咲き残り、皐月が咲き、胸毛の白い小鳥は嫩葉の陰で囀っていた。そして、松や楢にからまりついた藤は枝から枝へ蔓を張って、それからは天神の瓔珞のような花房を垂れていた。 (いいなあ) 憲一は足をとめた。 (こんな処にいると、帰るのがいやになるぞ) 憲一の眼には汚い四畳半の下宿が浮んで来た。拓殖大学に通っている憲一は、小石川の汚い炭屋の二階に下宿しているのであった。 (汚いって、お話にならないや) 何年か表がえをしたことのない、真黒くなって処どころに穴のあいた畳のことを考えてみた。 (いくら汚いたって、あれじゃやりきれないや) どこからか一羽の蝶が来て、ひらひらと皐月の花の上を飛んで往った。 (とにかく、いい処だ) 憲一はもう汚い下宿のことも忘れていた。林は奥へ往くにしたがって、躑躅と皐月が多くなった。朱、紅、白といちめんに咲き乱れた花は美しかった。憲一はその花の間
田中貢太郎
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