田山花袋 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
突然私は犬の凄じく吼える声が夜の空気を劈いてきこえて来るのを耳にした。私にはすぐわかつた。それは平塚領事夫妻の伴れて来てゐた犬に相違なかつた。あの長平丸の一等船室の下のところで、箱の中に入れられて、頻りにさびしがつて吼えてゐたあの大きなドイツ種の犬に……。 私は微笑した。矢張此処に来て泊つてゐるな! と思つた。つゞいて私の心はさうして遠くに行く夫妻のことでまた暫し満たされた。愈々小説的シインになつて行くやうな気がした。犬は頻りに吼えた。かなりに更けてゐる夜の空気を震はすばかりにして吼えた。 私は電気のぽつつりついてゐる卓の前の椅子にひとり淋しく腰をかけてじつとしてゐた。心をあつめるやうにじつと一ところを見詰めてゐた。旅情が脈々として起つて来た。今まで曾て味はつたことのない外国人としての寂寥がひしと私の胸を襲つて来た。 私の傍にベツドがあつて、その此方には、腰をかけると好い心持に凹むクツシヨンの大きい低い椅子が置かれてあつた。右の壁に寄せては、斜になつた卓の上に、インキ壺だの、ペンだの、硯箱だの、電報用紙や旅舎の名の入れてある用箋などの入れてある四角な竹細工の箱だの、小さな支那式の幅ツ広
田山花袋
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