豊島与志雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
三月の末に矢島さんは次のようなことを日記に書いた。――固より矢島さんは日記なんかつけはしない、これはただ比喩的に云うのである。 俺はこの頃妙な気持ちを覚ゆる。何だか新らしい素敵なことが起りそうな気がする。それはただ俺の内生活に於てでもない、また外生活に於てでもないが俺に関係するものであることは確かだ。どんなことだかまだ分らないが。兎に角何かが起りそうだ。……然し或はまた何にも起らないでこのままの淡い日々が続くのかも知れない。 淡い日々、そうだうまい言葉だ。懶い……と云っても当らない。俺は何も退屈しているんじゃない、為すべき仕事に事欠きはしない、却って忙しい位だ。青白い……と云っても当らない。俺の生活はそんなに空虚ではない、またこんな気障な言葉に価するほど俺の日々は安価でもない。……が然し淡い……そうだ、淡い日々だ。 俺の心のうちに何かが緩んできたのは事実だ。生の握力が緩んでいると云っても差支えない。若い時分から俺はしっかと自分の生活を握ってやって来た。或は何かを握り緊めてやって来た。それが近頃緩んできたのかも知れない。も少しはっきり云うと、俺の魂のうちに含んであった熱が減退してきたと云
豊島与志雄
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