永井荷風 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
しづかな山の手の古庭に、春の花は支那の詩人が春風二十四番と數へたやう、梅、連翹、桃、木蘭、藤、山吹、牡丹、芍藥と順々に咲いては散つて行つた。 明い日の光の中に燃えては消えて行くさま/″\な色彩の變轉は、默つて淋しく打眺める自分の胸に悲しい戀物語の極めて美しい一章々々を讀み行くやうな軟かい悲哀を傳へる。 われの悲しむは過ぎ行く今年の春の爲めではない、又來べき翌年の春の爲めと歌つたのは誰れであつたか忘れてしまつたが、春はわが身に取つて異る秋に等しいと云つたのは、南國の人の常として殊更に秋を好むジヤン・モレアスである。 空は日毎に青く澄んで、よく花見歸りの午後から突然暴風になるやうな氣候の激變は全くなくなつた。日の光は次第に強くなつて赤味の多い柚色の夕日はもう黄昏も過ぎ去る頃かと思ふ時分まで、案外長く何時までも高い樫の梢の半面や、又は低く突出た楓の枝先などに殘つて居る。或は何處から差込んで來るものとも知れず、植込の奧深い土の上にばら/\な斑點を描いて居る事もあつた。かゝる夕方に空を仰ぐと冬には決して見られない薄鼠色の鱗雲が名殘の夕日に染められたまゝ動かず空一面に浮いてゐて、草の葉をも戰がせな
永井荷風
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