中原中也 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
夕飯を終へると、彼はがつかりしたといつた風に夕空を眺めながら、妻楊子を使ひはじめた。やがて使ひ終つてその妻楊子を彼の前にある灰皿の中に放つた時、フツと彼は彼の死んだ父親を思ひだした、その放る時の手付や気分やが、我ながら父親そつくりだつたやうな気がした。続いて、「俺も齢をとつたな……」と、さう思つた。 それから彼は夕刊をみながら、煙草を吹かすのであつた。 年来の習慣で、彼は夕飯を終へると散歩に出掛けるか誰か知人を訪問するかしなければ気が済まないのであつた。しかし今晩は、出掛けるために電車賃が一銭もないのであつた。彼はズツと離れた郊外にゐたし、彼の友人や知人はみんな市内やまた他の方面の郊外にゐたので、彼は電車賃がないとなれば、誰かが遊びに来るのを待つてゐて、遊びに来た者から借りるか、それとも本を売るかしなければならないのだつた。 もうそろそろ空にも昼の明りが消えて了はうとしてゐて、電燈をめがけて飛んでくる虫も増していつた。 七時半まで誰か来ないものかと待つてゐたが誰も来なかつた。そこで彼は起ち上つて、室の隅に行つて、原稿紙の反古や本や雑誌の堆の中を探しはじめた。読んでしまつた本が二冊ばかり
中原中也
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