久生十蘭 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
時間からいうと、伊勢湾の上あたりを飛んでいるはずだが、窓という窓が密度の高いすわり雲に眼隠しされているので、所在の感じが曖昧である。 大阪を飛びだすと、すぐ雲霧に包みこまれ、それからもう一時間以上も、模糊とした灰白色の空間を彷徨している。はじめのころは、濛気の幕によろめくような機影を曳きながら飛んでいたが、おいおい高度をあげるにつれて、四方からコクのある雲がおしかさなってきて、旅客機自体が溷濁したものの中にすっぽりと沈みこんでしまい、うごめく雲の色のほか、なにひとつ眼に入るものもない。咽び泣くような換気孔の風の音と、佗びしいほどに単調なプロペラの呻りを聞いていると、うらうらと心が霞んできて、見も知らぬ次元に自分ひとりが投げだされたようなたよりのない気持になる。 この三年、白川幸次郎は、月に三回、旅客機で東京と大阪をいそがしく往復しているが、こんな夢幻的な情緒をひきおこされたのは、はじめての経験だった。どんよりとしているが、それでいて、暗いというのでもない。漠とした薄明りが、遠い天体からさしかける光波といったぐあいに、灰色の雲のうえにしらじらと漂っているところなどは、香世子が形容する死後
久生十蘭
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