久生十蘭 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
この夏、拠処ない事情があって、箱根蘆ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。 審理の結果、精神耗弱と鑑定、不論罪の判決で放免されたが、その後、一ヵ月も経たぬうちに、端無くもまた刑の適用を受けねばならぬことになった。これは普通に秩序罪と言われるもので、最悪の場合でも二年位の懲役ですむから、このたびも逸早く自首して刑の軽減を諮るのが至当であろうも、いまや自由にたいする烈々たる執着があり、一日といえども囹圄の中で消日するに耐えられぬから、思い切って失踪することにした。 いずれ貴様も諒解することと思うが、俺の四十年の人生は、あたかも旧道徳と封建思想の圏囲内を彷徨するイルンショー製「クロノメートル」の指針のごときもので、自己一身のほか、なにものをも愛さず、思料せず、体面を繕うことばかりに汲々たる軽薄浅膚な生活を続けていた。最近、測らざる一婦人の誠実に逢着し、俺の過去はあまりにも虚偽に充ちていたことを覚り、新生面を打開しようと決意したが、俺は薄志弱行の徒で、実社会に身を置くかぎり、因習に心を煩わされて到底自己に真なることができぬと思うから、一切の縁を断切ッて無籍準死
久生十蘭
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