北条民雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
すみれ 北條民雄 昼でも暗いような深い山奥で、音吉じいさんは暮して居りました。三年ばかり前に、おばあさんが亡くなったので、じいさんはたった一人ぼっちでした。じいさんには今年二十になる息子が、一人ありますけれども、遠く離れた町へ働きに出て居りますので、時々手紙の便りがあるくらいなもので、顔を見ることも出来ません。じいさんはほんとうに侘しいその日その日を送って居りました。 こんな人里はなれた山の中ですから、通る人もなく、昼間でも時々ふくろうの声が聞えたりする程でした。取り分け淋しいのは、お日様がとっぷりと西のお山に沈んでしまって、真っ黒い風が木の葉を鳴かせる暗い夜です。じいさんがじっと囲炉裏の横に坐っていると、遠くの峠のあたりから、ぞうっと肌が寒くなるような狼の声が聞えて来たりするのでした。 そんな時じいさんは、静かに、囲炉裏に掌をかざしながら、亡くなったおばあさんのことや、遠い町にいる息子のことを考えては、たった一人の自分が、悲しくなるのでした。 おばあさんが生きていた時分は、二人で息子のことを語り合って、お互に慰め合うことも出来ましたけれど、今ではそれも出来ませんでした。 来る日も来る
北条民雄
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