堀辰雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
今夜、伊勢物語を披いて居りました。そのうちふいと御誌からのお訊ねを思ひ出しましたので、とりあへずペンを取つて、只今、考へてをるがままに書いて見ることにします。 僕がこのペンを取るまで、氣もちよく讀みふけつてゐた伊勢物語の一段はかういふのです。短いものなので、全部引用してみませう。 むかし、男ありけり。人の娘のかしづく、いかでこの男にものいはむと思ひけり。うち出でむこと難くやありけむ、もの病になりて死ぬべき時に、かくこそ思ひしかといひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ來りけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけてややすずしき風吹きけり。螢たかくとびあがる。この男、見ふせりて、 とぶ螢雲の上までいぬべくは秋風ふくと雁につげこせ くれがたき夏の日くらしながむればその事となくものぞかなしき かういふ一段を讀んでをりますと、何かレクヰエム的な――もの憂いやうな、それでゐて何となく心をしめつけてくるやうなものでいつか胸は一ぱいになつて居ります。「宵はあそびをりて」――自分ゆゑに死んでいつた女の棺の前で、男はその
堀辰雄
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