堀辰雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
「更級日記」は私の少年の日からの愛讀書であつた。いまだ夢多くして、異國の文學にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奧ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた。おそらく、その頃の私に忘れられがちな古い日本の女の姿をも見失はしめまいとなすつての事であつたかも知れない。私は聞きわけのよい少年のやうにすぐその日から、當時の私には解し難かつた古代の文字で書綴られたその日記のなかを殆ど手さぐりでのやうに少し往つては立ち止まり立ち止まりしながら、それでもやうやう讀みすすんでゐるうちに、遂に或日そのかすかな枯れたやうな匂の中から突然ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮かんで來だした。それは私にとつては大切な一瞬であつた。その鮮やかな心像は私に、他のいかなるものにも増して、日本の女の誰でもが殆ど宿命的にもつてゐる夢の純粹さ、その夢を夢と知つてしかもなほ夢みつつ、最初から詮めの姿態をとつて人生を受け容れようとする、その生き方の素直さといふものを教へてくれたのである。 さうやつて少年の日に「更級日記」を讀み、さういふ古い日本の女のひとり
堀辰雄
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