堀辰雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
この夏も末になつてから漸つと「晩夏」が校了になり、ほつと一息ついてゐたら、甲鳥書林から何だか部厚い小包が屆いた。何かと思つたら、一束の檢印紙だつた。ひどく凝つた檢印紙で、一枚々々丁寧に印を捺さなければならないやうな代物なので、やれやれと思つた。その上、これまでの本には大抵それですませてゐた「辰雄」といふ無趣味な印ではすこし檢印紙の方がかはいさうな氣がするので、ふいと妻の亡父が所藏してゐた支那の古い印のことを思ひ出して、その中で私の好きな印を二つ三つ東京の家から送つて貰ふことにした。 そんなふとした思ひつきで、こんな支那の古い印などを使つてみたので、何もこれは私の新しい趣味なのではない。私の先生たちは――室生さんでも、芥川さんでも、佐藤春夫さんでも、みんな獨自の文人趣味を打ち樹てられてをられるが、私はまだそれを解することさへ出來ない。まして支那の古い印の好し惡しなどは何處にそれを求めていいのだかも見當がつかない。妻の亡父の所藏して居つた十幾顆の印は彼が廣東に在つた頃何かの革命の際急に所在をくらまさなければならなかつた支那の某大官が纔かな金で彼に讓つていつた品ださうで、明清二代の名家が刻し
堀辰雄
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