堀辰雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
その女が僕を見てあんまり親しげに微笑したので、僕はその女について行かずにゐられなかつた。もうすべてのものは眠つてゐた。ただ風だけが眼ざめてゐた。が、それとても、町中に散らばつてゐる紙屑をすら動かすほどのものではなかつた。それはむしろ空氣の流れと云つた方がいい。それが僕をうしろから押すのである。眼を閉ぢてそれに押されるままになりながら、僕ははげしい疲勞を感じてゐる。女は僕から十歩ばかり先に歩いて行くが、かの女もまた僕のやうに疲勞してゐるのだらうか、そしてやはり眼を閉ぢて空氣の流れに身をまかせてゐるのだらうか。かの女と僕とは夜よりも暗い町の中をいくつとなく通り過ぎる。僕はもう僕が何處を歩いてゐるのだか知ることが出來ない。そしてただこの夜の空氣の流れが僕たちに一つの方向を與へてゐるやうに思はれる。家々はすつかり閉されてゐる。たまに窓にあかりが點いてゐても、僕たちがそれに近づくと、あたかも僕たちを恐れるかのやうにそれは消されてしまふ。そのやうに二人きりで歩いてはゐたが、しかし女は僕があとからついて行くのを知つてゐるのかどうか一寸も解らない。それほど女はすべてのものに無頓着にゆつくりと歩いてゐる
堀辰雄
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