牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
先日銀座で保高さんに遇ひ、文芸首都に何か書くようにと命ぜられた折、わたしは浅原六朗を――と応へた。それより他に誰も思ひ浮ばなかつたのである。畢竟、彼はわたし達の文学生活にとつて忘れることの適はぬ旧友であり、やがてこれからは人生上の歴然たる友達としての行手が待つてゐるのだと、わたしは漸くこの頃になつてはつきりとして来た次第である。何しろわたし達は喧嘩ばかりして、漸くこゝまで達したものとは申せ、わたしには心底からの戦ひは求められなかつたのだ。浅原がわたしのことを鬼のやうな顔をして、やつつけてゐたとか、露骨な遊蕩児になつたとかと聞いても、何だかわたしは明らかに身に応えず、彼の内面的のことは左ういふことを云ふ人には解つてゐないのだといふ気がしてゐるだけだつた。全く彼の言葉つきなどからは、誤解といふやうなものを享けるものが在るには在つても、何時何処で何ういふことをきゝ、何とわたしが答へたにしても、何かはつきりと或る一つの安心が、わたしの心の上には明らかであつた。それは、わたし達が未だ二十歳のころ、夢のやうなことを語らひながら明るい戸山原などを歩き、いつまで歩き、いつまで喧嘩して、終ひには罵り合つ
牧野信一
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