牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
若しも貴方が妾に裏切るやうな事があれば、妾は屹度貴方を殺さずには置きませんよ、と常に云つてゐた女が、いざとなつたら他愛もなく此方を棄てゝ行つた。此方こそかうして未練がましくも折に触れては女の事を思ひ出して居るが向うでは……妾は自分の将来を考へなければなりません。貴方のやうな全く取得のない不真面目なさうして涙を持たぬ人はつくづく愛想が尽きたのです。貴方のやうな人と将来を共にするなどゝいふことは、あゝ、考へても怖ろしい……と云つてさつぱりと行つてしまつた程なのだから無論此方のことなどを思ひ出すことなどはいつになつたつてありやあしまい――。 ある夏の夕暮私は店先の縁台に腰を掛けて煙草を喫しながら往来を眺めて居た時、ふと去年別れた照子の事を想ひ出しました。どうしてもあきらめ切れないとあの当座は何れ程悲しんで居たか知れなかつたのですが、何と云つても月日には勝てないもので、此頃ではまあいゝあんばいに殆ど照子の事は忘れてしまつたのでしたが、又想ひ出したのです。私は悲しくなりました。然し此頃の私の悲しみは、照子はもう再び帰らない絶対的のものになつて居りましたから、たゞこんな場合にふと感ずる感傷的なもの
牧野信一
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