牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
川瀬美奈子――。 さういふ署名の手紙が久保に、はじめて寄せられたのは、三年も前のことである。久保は、手紙を書くのが不得手だつたので、まつたく返事を出したことはなかつたが(それに、何時のでもそれは返事を必要とする手紙ではなかつたからでもあるが――。)必ず一ト月のうちには一二度宛、自分の消息やら久保の作品に寄せる好意の言葉などを誌してよこすのが常だつた。 久保はアパートに住む若い生真面目な洋画家である。三年前の二科展覧会に彼の作品がはじめて当選して以来、彼の作品は年毎に画壇に異彩を放つてゐた。云ふまでもなく美奈子の初めての手紙は、その時の久保の作品に感激のあまり書き送つたものであつた。 だが、そのやうな類ひの文通は多くの場合、是非お目にかゝりたい、とか、お訪ねしても関はぬか、とかいふことになるのが常例なものだが、美奈子のそれには今日の日まで一言もそんな類ひの言葉は誌された験がなかつた。 返つて此頃では久保の方が、美奈子の手紙に接する毎に「是非会つて見たい」といふ風な心地に駆られ出してゐた。だが、久保は、此方からそんなことを云つてやるのは、不見識のやうで、堪へずには居られなかつた。今年の夏、
牧野信一
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