牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
今度東京へ戻つてからの住むべき部屋を頼む意味の手紙を八代龍太に書くつもりで、炉端で鉛筆を削つた。酒を飲んでゐる平次と倉造が、茶わんの杯をさして、村境の茶屋に三味線の技に長けたひとりの貌麗しい酌女が現れてゆききの遊冶郎のあぶらをしぼつてゐるとのことであるから見参に赴かうではないかと誘つた。賛成の旨を応へ、手紙一本書く間を待ち給へ、と二階へあがつた。窓からは、暮色の波に揺れる一面の稲田が、もう遥の山々は空との境もなく深い宵暗に閉ざされてゐるので――沼の観であつた。向ふ岸に一点の灯が見ゆるのだ。茶屋の灯である。村里を左様に離れた畑中に、ひとり花やかな館を営む所以を不思議と思つたところが、彼は同村民を野蛮で吝嗇の徒と排して、夙に街道の旅人を招ぶべき念であつたとのことである。茶屋の者達は努めて都の言葉を用意して、村言葉の連中をわらふとの由だつた。 龍太への手紙を書かうと紙に向つてゐると、抽象的観念の実在――斯んな文句がいつものやうに口をつくと、例によつて全身に異状な熱湯の竜巻が萌して二枚三枚五枚と書きつゞけ、終ひに七枚となつた時、不図窓の向方を眺めると、山の頂きがほの白んだ空の裾に青黒く鮮明な隈
牧野信一
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