牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
母がゐる町の近くに帰つたが母と同じ家に住む要もなく、何処にゐても自由であり、それなのに、何故自分は今までの都にとゞまらなかつたのか? でなければ、何故、常々憧れてゐる妻を伴つての長い旅路にたゝなかつたのか、それにも何の妨げもなかつたのに――? 何故、初めての眼新しい刺激のある何処かの地に住はうとはしなかつたのか、何か仄かな明るさを感じさせるのはそのことだけだつたが――? 樽野は稍ともすれば熱つぽい吐息と一処にそんな意味の呟きを洩した、そんな意味もあるらしかつた、彼の幾日間もの漫然たる吐息を強ひて綴り合せて見れば――。そして彼は、自ら己れに向つて「何故――?」を用ひることのわざとらしさと、何時にも笑ひのために動いたことのない苦気な表情とをおもつて苛々と首を振りながら夜になると、土堤の草むらが窓さきにふれかゝるほど蔓つてゐる奥の北向きの部屋に籠つたり、丘の下に借りてある舟大工の離れへ行つたりして何かこつこつと飽かずに営んでゐた。 「あそこの離れの明るさは何となく気に入つてゐるよ、親爺が殆ど自分の手ひとつで建てたさうだが――近いうちにもう一棟別に建てるさうだ、此処の家がとりこはされる時になつ
牧野信一
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