牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
悪い酒であります。憎い酒であり、野蛮な酒でありますが、決して酒に罪があるのではありません。偏へに小生の酩酊振りが悪く、憎く、そして極めて野卑であるばかりなのだ。あゝ小生は常に悪酔の失策と後悔に身をやかれ、生活の軒を傾け、やがては自堕落の淵にめり込むやも知れません。その癖一度だつてうまいぞ、こいつは飲まずには居られんと止み難い欲望に駆られて酒徳利に振ひつくといふわけではありません。久保田万太郎先生の酒は、真に美しくいつも懐しく、大きく立派であつて、吾が酒の不しだらさを思ふにつけ、十年の昔から敬愛と羨望の念とを忘れた験しとてもありませんが、たゞひとつ、うまいぞ、こいつは飲まずには居られんぞといふ類ひの理由から、グラスを手にするのではないとの点だけは、この小生も稍先生の下流に属するものかと思考もせらるゝ次第であります。そしてまた小生は、更に飲まうがために文句を附け足すわけではないが、矢張り左う易々とは酒を止めようともしないといふのは、いつかは己れも、悪くなく、憎くもなく、然して野蛮に走ることのないうつとりとした盃の持ち手になりたいものよと念じて止まぬからであります。小生の部屋の壁にはいつも「
牧野信一
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