牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
こゝは首都の郊外である。 タキノが、突然――(といふのはタキノ自身にとつて、そして一年程前に、これも突然主人を亡くして、こゝから二十里あまり離れてゐる海辺の寒村に彼のたつたひとりの小さな弟と二人で佗しく暮してゐたタキノの母親にとつての副詞に過ぎないことを断つて置かう。彼女は、その長男であるタキノの帰郷を予期してゐたのだ。タキノ自身も、こゝに移る二日前までは、そのつもりだつた。古き世から伝はる所謂「帰れる蕩児」になることに、反つて安易を感じてゐたのである。……が、それがどうして斯うなつたかの説明は省くつもりだ。こゝでは一寸この副詞の範囲を明らかにして置きたかつたまでのことだ。)――と、細君と一幼児と、荷物自働車一台とで、二三ヶ月住んだ芝・高輪から移つて来て、もう三十日あまり経つたのである。 春になつてゐたが、まだ寒かつた。タキノは、こゝに来て以来、一日に一度宛入浴に出かける以外、土を踏むことはなかつた。昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ相当快く眠り、しばらくたつて寝床から這ひ出し、湯に出かけ、さつぱりして帰つて来ると、灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふ、より他に何もなか
牧野信一
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