牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
哄笑の声が一勢に挙つたかと思ふと、罵り合ひが始まつてゐる――鳥のやうな声で絶叫する者がある、女の悲鳴が耳をつんざくばかりに聞えたかと思ふと、男の楽し気な合唱が始まつてゐる――殴れ! とか、つまみ出してしまへ! とか、そんな凄まじい声がして、 「あゝ、痛いツ!」 「御免だ……」 「救けて呉れ!」 そんな悲鳴が挙つたりするので、これは容易ならぬ事件が起つたのか! と思つて誰しもちよいと立止つて様子を窺つたが、同時に軽い苦笑を浮べて行き過ぎてしまふのであつた。 哄笑する、罵倒する、絶叫する! ――が、いづれも遊興の渦巻なのである。――だから、恰も喧嘩のやうな騒ぎに驚いて、ちよいと立ち止つて見ると、そんな騒ぎを他所に、卓子から卓子へ愛嬌を振り撒いてゐる踊り子のタンバリンの鈴の音も聞えるし、陰気な街上詩人が物思ひに耽りながら弾いてゐるらしいギターの眠む気な音も聞える。 酔つ払ひ共が、ふざけ散らしてゐる騒ぎなのだ。 それにしても、不思議な騒がしさを持ち続けてゐる酒場である。朝も昼も真夜中も差別がない。 「おい/\、イダーリアの親爺さん、そんなふくれツ面ばかりを売物にしないで稀には俺達と一処になつて
牧野信一
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