牧野信一 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
「もう私は一切酒は飲まない。」 私の叔父にあたる岩城源造は余程神妙さうに繰返してゐた。 「それあ、結構ですね、一切飲まないといふことも無理でせうが、好い齢をしてカフエーに行くといふやうなことは……」 などといひかけてゐるうちに私は、吾ながら思はず恐縮して頭を掻いた。私が人に向つて斯んな類の意見を口にするなど凡そ途方もない出来事に違ひなく、おまけに相手が六十歳にもならうといふ老人であつた。百円ばかりの金をもつて呉服物の買出に来たところ、晩飯を食ふうちに用事は翌日に延ばさうといふことになり、ついふら/\と酔ふうちに、大事の金を紛失してしまつたのである。たしかに何処何処のカフエーで落したから念の為に訊いて見て呉れといふので、私が行つて見ると田舎臭い白粉をごて/\と塗つた四五人の女が、ゲラ/\と笑つて、 「まあ、落したんですつて……あんまり気前好く振り撒いたので気まりが悪いんでせう。」 と、その時の岩城の容子を話した。如何にも彼のやりさうもない振舞ひなのだが、私はあきれて赤くなつて引き返し、岩城といふと何処でも相手にしないので、私もあまり訪ねたこともない親戚へ赴いて借用した。六十にもなる年寄が
牧野信一
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