水上滝太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
相原新吉夫婦が玉窓寺の離家を借りて入ったのは九月の末だった。残暑の酷しい年で、寺の境内は汗をかいたように、昼日中、いまだに油蝉の声を聞いた。 ふたりは、それまでは飯倉の烟草屋の二階に、一緒になって間もなくの、あんまり親しくするのも羞しいような他人行儀の失せ切れない心持でくらしていた。ひとの家の室借をしていると、何かにつけて心づかいが多く、そのために夫婦の間に夫は妻に対し、妻は夫に対して、あたりまえ以上の遠慮があった。 田舎の商業学校を卒業して、暫く役場に勤めていたけれど、将来の望もなく、もともとあととりの身の上ではなかったから、東京に出て運をためして見ようという気になって、新吉が故郷を出てから十二年になる。小学校では級長をつとめた事もあるし、商業学校でもいつも平均点は甲だったから、もしも学資が豊かならば、大学まで行きたいのだったが、それは許されない望だった。郷里の先輩で、相当の地位の役人をしているのに口をきいて貰って、現在勤めている銀行の最下級の行員となって、夜は神田の私立大学に通った。東京に行きさえすれば、うで次第でどしどし偉くなれるように考えたり、級長だったというだけの事で人に勝れ
水上滝太郎
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