人の子の親となりて
坂口安吾
人の子の親となりて 坂口安吾 私には子供が生れないと思っていたので、家族のつもりで犬を飼っていた。いろいろの犬を飼ったが、最後にはコリー種に落ちついて、いまも二匹いる。 だから綱男が生れたときも、まず何よりも犬と比較して考える。仔犬は買ってきた時から人にじゃれるし旺盛な食慾があって可愛いものだが、生れたての子供は目も見えないから、反応というものがない。自分の
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坂口安吾
人の子の親となりて 坂口安吾 私には子供が生れないと思っていたので、家族のつもりで犬を飼っていた。いろいろの犬を飼ったが、最後にはコリー種に落ちついて、いまも二匹いる。 だから綱男が生れたときも、まず何よりも犬と比較して考える。仔犬は買ってきた時から人にじゃれるし旺盛な食慾があって可愛いものだが、生れたての子供は目も見えないから、反応というものがない。自分の
松永延造
私が未だ十九歳の頃であつた。 私の生家から橋一つ越えた、すぐ向うの、山下町××番館を陰気な住居として、印度人アリア族の若者、ウラスマル氏が極く孤独な生活をいとなんでゐたと云ふ事に先づ話の糸口を見出さねばならない。彼れが絹布の貿易にたづさはつてゐる小商人だと云ふ事を私は屡ば聞いて知つてゐたが、然も、彼れの住居には何一つ商品らしいものなぞは積まれてゐなかつたし、
ボードレールシャルル・ピエール
親しい女よ、 良識はわれらに告げて居る、地上のものは殆んど存在してはゐない、真の現実はたゞ夢の中にあるのみだと。自然の幸福を消化するためには、人工の幸福に於けるが如く、まづそれを嚥み下す勇気を持たなければならない。しかも、この幸福に価する人々は、人間の考へてゐる至福が常に吐剤の効果を呈するが如き人々に限られて居るのだ。 人工的快楽の記録が、最も自然的な快楽の
小酒井不木
人工心臓 小酒井不木 一 私が人工心臓の発明を思い立った抑ものはじまりは、医科大学一年級のとき、生理学総論の講義で、「人工アメーバ」、「人工心臓」の名を聞いた時でした。…… と、生理学者のA博士は私に向って語った。A博士は曾て、人工心臓即ち人工的に心臓を作って、本来の心臓に代らしめ、以て、人類を各種の疾病から救い、長生延命をはかり、更に進んでは起死回生の実を
中谷宇吉郎
本当に人間が住める人工衛星が、いつごろ出来るかは、いまのところまだわからない。しかし十年ぐらいのうちには出来るだろうというのが、一般の見通しになっている。数年の誤差はあっても、いずれ出来るには、ちがいない ところでそうなった時に、一番困るのは排泄物の処理である。小便の方は再生して純水をとり、それを水として使うとしても、カスが出る。それと大便とは、何とかして捨
小川未明
冬でありましたけれど、その日は、風もなく穏やかで、日の光が暖かに、門口に当たっていましたので、おみよは学校から帰りますと、ござを敷いて、その上で、人形や、おもちゃなどを出してきて遊んでいました。すこし前まで、近所のお友だちがきて、いっしょに遊んでいたのですが、お友だちはちょっと用ができて家へいったので、後には、まったくおみよ一人となったのでした。けれども、彼
豊島与志雄
人形使い 豊島与志雄 一 むかし、ある田舎の小さな町に、甚兵衛といういたって下手な人形使いがいました。お正月だのお盆だの、またはいろんなお祭りの折に、町の賑やかな広場に小屋がけをして、さまざまの人形を使いました。けれどもたいへん下手ですから、見物人がさっぱりありませんで、非常に困りました。「甚兵衛の人形は馬鹿人形」と町の人々はいっていました。 甚兵衛は口惜し
島村抱月
『人形の家』解説 島村抱月 一 『人形の家』の作者ヘンリック・イブセン(Henrik Ibsen)は西暦千八百二十八年三月二十日、ノールウェーのスキーンといふ小都會に生まれ、千九百六年五月二十三日、七十九歳で同國の首府クリスチアニアに死んだ。彼れの生涯中三十七歳から六十三歳まで、人生の最盛期二十七年間は、本國に意を得ないでドイツ、イタリア等に漂泊の生活を送り
竹久夢二
人形物語 竹久夢二 1 あるちいさな女の児と、大きな人形とが、ある日お花さんのおうちをたずねました。 ところが その女の児は、それはもうほんとに、ちいさな女の児で、その人形はまた、それはそれはすばらしい大きな人形だったのです。 それゆえ、お取次に出た女中には、人形だけしか眼に入らなかったのです。女中はおどろいてお花さんに、 「まあお嬢さま! 大きなお人形さん
竹内勝太郎
人形芝居に関するノオト 竹内勝太郎 「詩は僕の鏡である。」 レリー 巴里シャン・ゼリゼェの林のなかに二つの小屋があって、今でも日曜祭日毎に昔ながらのギニョール、手套式の人形芝居が学校や家庭から解放された子供達を喜ばせて居る。その小さい粗末な舞台で演じられる人形の所作を見て少年等は笑い興じ、手を拍って、現実の世界を忘れて居る。それ等の活きいきした声を聞けば何人
折口信夫
人形の話 折口信夫 歌舞伎に関係のある話は、御祭りの芝の舞台の話でしまっておき、この章では話を変えて、人形の話を簡単にしておきたいと思う。前に人形の舞台と歌舞伎芝居の舞台との関係について、ごくおおざっぱな話をしておいたが、今日はそれからもう少し路を開いていきたいと思う。 人形は室町になり突如としてある興行団体の手によって興行されだした。ということはいったいど
折口信夫
人形は古くは雛と言つた。雛といふと、雛鳥とか雛型とか言つて、小さい感じが先に立つ。併し、大きい人形もあつたのである。即、巨人を偶像化した人形が過去にもあつたし、現在にもある。これは普通、疫病・風雨等の厄払ひに用ゐるので、人間が中に這入つて其役を勤める人形(譬へば、人間が肩車をした上に覆ひを被つて巨人の形を作つたりした人形)と本道の大人形とある。また中位の人形
寺田寅彦
さまよえるユダヤ人の手記より 寺田寅彦 一 涼しさと暑さ この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮えるのを見るのは実は案外に爽快なものである。 暑い時に風呂に行って背中から熱い湯を浴びると、やはり「涼しい」とかなりよく
中野鈴子
人々は持つだろう あたたかい夕餉を持つだろう 静かな憩いを持つだろう 共感にほほ笑み 善意なるものに満ちていよう 無限なるものに包まれ 美しい手紙を秘めていよう すべてやさしくつよかろう 彼等の敷き布は白かろう 夜は深く ねむりはあまくまるかろう ●図書カード
西周
此前ノ御談會ニ嘗テ人ノ性理ヲ論ジ、之ヲ分チテ智情意ノ三部トナスコトヲ概論シタリ。今斯ニハ是ニ就キテ、智ノ一部ヲ概論スベシ。 前論ニモ略々擧ゲシ如ク、智ト云フ能力ハ人心ニ具ハル能力ナリト雖ドモ、其依テ源ヲ取ル所ハ五官ニ外ナラズ。目ニ視テ色ヲ知リ、耳ニ聽テ聲ヲ知リ、鼻ニ嗅デ臭ヲ知リ、舌ニテ味ハヒテ味ヒヲ知リ、支體ニテ覺エテ寒熱、疎密、軟硬、方圓等ヲ知ル。是智ノ依
北大路魯山人
書相は、よくその人の価値を表現する。端的にいって、いかにしたら書相によって人の価値を見分けるか? 人品良き者は品良き書を、下品なる者は下等なる書を、強き個性を有する者は、強靭なる書を、個性軟弱なる者は、その線極めて脆弱にて、筆力剛健ではない。胆力備わった者は、自ずから天衣無縫といった大型の筆跡を残すことは、幾多の歴史的事実が示すところである。また、心小にして
ドロステ=ヒュルスホフアネッテ・フォン
*2愚かな心の縺れを、誤りなく解きほぐす そんな纎細な手がどこにあろうか。 哀れにもやつれはてた人に、平氣で石を投げつける そんな氣強い手がどこにあろうか。 *3虚榮の血の押さえがたいたぎりを、誰が裁くであろうか。 忘られぬままに若い人の心に強い根を張らせ ひそかに成心を植えつけて、その人の靈魂を蝕みつくす そんなかりそめの言葉を、誰が裁くであろうか。 汝幸
萩原朔太郎
北原氏は、私の知つてゐる範圍で、最もよい感じをもつた人です。あの人の感じを一言で言へば「ふつくりとした人柄」でせう。私のやうないらいらした性格の人間は、一般に人嫌ひが多いので、友人といふものがめつたにできません。たいていの人とは逢つても落着いて話ができません。然るに北原氏には、私のいらいらがたつぷりと這入るだけの餘裕があります。ですから私はあの人と話をしてゐ
藤野古白
全面の平舞台、中央から左右に開いて屈曲した老松が生い茂る。その幹は人が隠れることができる程の太さで、枝の間からは海が見え隠れしている。舞台の前方には波の打ち寄せる白浜、後方には海が広がり、朦朧とした向うには淡路島の描かれた書割を置く。中天には月が懸かっている。ここは明石の浦、八月十五夜、満月の夜景である。楽曲が鳴り幕が開くと、華麗に装飾の施された屋形船が仕掛
南方熊楠
(南方閑話にも收めたれど、一層増補したる者を爰に入る) 建築土工等を固めるため人柱を立てる事は今も或る蕃族に行なはれ其傳説や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば印度の土蕃が現時も之を行なふ由時々新聞にみえ、ボムパスのサンタルパーガナス口碑集に王が婿の強きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池の中に乘馬のまゝ婿を立せると流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄
新渡戸稲造
道友会へ出席するのは、今夕で二回目ですが会員になることを許されたのを、私も有難い事と常に感謝している。道友会は心の善いものを集めて一所に話をしようという趣意で起ったものと承知している、今も出かけに、家内がドコへ行くと聞くから、道友会へ行くと答え、道友会とは何んだというから、心の善いものの会じゃと答えたら、ソウか、お前も心の善い人の中かと笑う、私も笑うて出て来
新渡戸稲造
久振で東京へ帰ッて参りまして、安心して休むつもりであッたところが、突然お呼出しになりまして、定めし何にか御馳走でもあるじゃろうと思ッて来たところが、二階の階段で演説をという命令である。台湾から帰ッたばかりで、とても面白い話など出来る次第でもなし、けれども台湾に行ッたからというて、舌を落して来たという訳でもなし、日本語を忘れたという訳でもないからして、絶対的に
小林多喜二
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。その一つの皺の底を線が縫って、こっちに向ってだんだん上ってきている。釧路の方へ続いている鉄道だった。十勝川も見える。子供が玩具にしたあとの針金のようだった、がところどころだ
宮本百合子
人民戦線への一歩 宮本百合子 うちを出て、もよりの省線の駅までゆく途中の焼跡にも、この頃はいろいろの露店が出はじめた。葭簀ばりの屋台も、いくつかある。 きのう、霜どけのぬかるみを歩いてその通りをゆくと、ちょうど八百やが露店を出していた。人参、葱、大根が並んでいる。鉢巻した売りてが、大きい一本の大根をぶら下げて、あっちからこっちへと積みかえながら、 「さア、こ