入営のことば
竹内浩三
十月一日、すきとおった空に、ぼくは、高々と、日の丸をかかげます。 ぼくの日の丸は日にかがやいて、ぱたぱた鳴りましょう。 十月一日、ぼくは○○聯隊に入営します。 ぼくの日の丸は、たぶんいくさ場に立つでしょう。 ぼくの日の丸は、どんな風にも雨にもまけませぬ。 ちぎれてとびちるまで、ぱたぱた鳴りましょう。 ぼくは、今までみなさんにいろいろめいわくをおかけしました。
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竹内浩三
十月一日、すきとおった空に、ぼくは、高々と、日の丸をかかげます。 ぼくの日の丸は日にかがやいて、ぱたぱた鳴りましょう。 十月一日、ぼくは○○聯隊に入営します。 ぼくの日の丸は、たぶんいくさ場に立つでしょう。 ぼくの日の丸は、どんな風にも雨にもまけませぬ。 ちぎれてとびちるまで、ぱたぱた鳴りましょう。 ぼくは、今までみなさんにいろいろめいわくをおかけしました。
黒島伝治
入営前後 黒島傳治 一 丁度九年になる。九年前の今晩のことだ。その時から、私はいくらか近眼だった。徴兵検査を受ける際、私は眼鏡をかけて行った。それが却って悪るかった。私は、徴兵医官に睨まれてしまった。 その医官は、頭をくり/\坊主にして、眼鏡をかけていた。三等軍医だった。それが、私の眼鏡を見て、強いて近眼らしくよそおうとしているものと睨んだのである。御自分の
黒島伝治
入営する青年たちは何をなすべきか 黒島傳治 全国の都市や農村から、約二十万の勤労青年たちが徴兵に取られて、兵営の門をくゞる日だ。 都市の青年たちは、これまでの職場を捨てなければならない。農村の青年たちは、鍬や鎌を捨て、窮乏と過労の底にある家に、老人と、幼い弟や妹を残して、兵営の中へ這入って行かなければならない。 村の在郷軍人や、青年団や、村長は、入営する若も
尾崎放哉
入庵雑記 尾崎放哉 島に来るまで この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に坐らせてもらふ事になりました。庵は南郷庵と申します。も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ヶ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつて居りますから、番外であります。已に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
槙村浩
六三五番 氏名 吉田豊道 一 犯罪するに至った筋道を記せ 自分ハ最初世上ノ俗論ニ迷ハサレテ、マルクス主義ハ一箇ノユートピアニ過ギナイト信ジテ居タ。シカモ世上ノ反マルクス主義論ハ矛盾百出迷理錯雑一モ理論トシテ取ルニ足ルベキモノハナイ。ヨッテ自分ハマルクス主義ノ正シクナイ事ヲ完全ニ理論的ニ証明セントシテ研究ヲ始メタガ、ソノ結果ハ却ッテ同主義ハアクマデ正当デアリ、
久坂葉子
入梅 久坂葉子 わたしは庭に降りて毛虫を探し、竹棒でそれをつきころしていた。それは丁度、若葉が風にゆらいでいきいきとしており、モスの着物が少しあつすぎる入梅前のこと、素足にエナメル草履の古いのをつっかけて庭掃除に余念がなかった。毛虫は、ほんの二坪位の庭より十匹余りも出て来た。石のくつぬぎに行儀よく並べた死骸を又丁寧に一匹ずつ火の中に放りこもうとして紙屑を燃や
正宗白鳥
長兄の榮一が奈良から出した繪葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡つた。が、勝代の外には誰れも興を寄せて見る者はなかつた。 「何處へ行つても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに歸省するつもりだ。」と鉛筆で存在に書いてある文字を、鐵縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目を凝らして判じ讀みしながら、 「十日と云へば明後日だ。良さんはもう一日二日延して、榮さんに會ふ
正宗白鳥
長兄の栄一が奈良から出した絵葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡った。が、勝代のほかには誰も興を寄せて見る者はなかった。 「どこへ行っても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに帰省するつもりだ」と筆でぞんざいに書いてある文字を、鉄縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目を凝らして、判じ読みしながら、 「十日といえば明後日だ。良さんはもう一日二日延して、栄さんに会
片山広子
入浴は、コーヒーを飲み甘い物をたべるのと同じやうに私たちにはたのしいリクリエーシヨンで、同時にどうしてもはぶくことの出来ない清潔法である。戦争で国も家々もだんだん貧乏して来た時に、たき物の都合から私はやうやく思ひきつて街の湯に出かけることにした。その銭湯は家の門を出て西の方角に行き垣根に添つて東南に行くと、すぐであつた。さういふと遠いやうでも、じつは私の家の
佐藤垢石
入社試験 佐藤垢石 一 私は、明治四十三年四月二十三日の午前十時ごろ、新聞記者を志望して、麹町区有樂町にある報知新聞社の応接間に、私の人物試験をやりにくる人を待っていた。これより先、学校の先輩である詩人で既に報知新聞社会部記者であった平井晩村の紹介によって、履歴書を出して置いたが、一応人物試験してみないことには、採否は決められないという話であったのである。
夏目漱石
入社の辞 夏目漱石 大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢う人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思わなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すら其の点
ドイルアーサー・コナン
私の友シャーロック・ホームズ独特な人格をよく出しているお話をしようと思って、たくさんの私の記憶をさがす時、私はいつもあらゆる方面から私の目的に添うような話をさがし出そうとして苦労するのである。なぜなら、ホームズがその心理解剖に全力を注いだと思われるような事件、あるいはまた犯罪捜査に特別な方法を見せたと思われような事件は、事実において、みなさんにお話してもつま
陀田勘助
独房の中にたった独りでいるおれは決して孤立したものでない全体の中の部分だ!おれはどこから生れてき、また何を背負っているか!両親のまた両親とおれの系統をたどってゆくとき、おれの前には数万人の祖先が立っている独房の中にいるたった独りのおれの身体は数万人の祖先の血と肉で組織されているのだそして、物質の組織――神経系統に花咲いた精神も、それゆえに数万人の――いやもっ
国枝史郎
全体主義とか全体主義国家とかいうことが盛んに云われている。日本が全体主義国家であるか無いかに就いては私は云わない。いや、むしろ、日本の国を、全体主義というような、外国伝来の言葉をもって範疇づけることは、その特殊の国体から云って不当であろうと思う。 しかし、今日の場合、日本民衆に、全体主義の如何なるものであるか、そうして、現在の日本の国情に於ては、全体主義の内
宮本百合子
文学の分野においても、本年の初頭から民衆と知識階級との社会関係の再吟味がとりあげられて来ている。しかし、そのとりあげられかたは一種独特な色調を帯びていて、例えば、『文学界』の同人達によって喧しく提案された文壇否定、従来の意味での職業的文壇的作家の否定、文学の大衆化の声は、不思議にも常に今日の民衆がおかれている文化の貧困と水準の低さとをそれなりに肯定した上で発
桑木厳翼
人の感興を惹くものは流行する、流行すれば摸倣も出現する、摸倣には巧みなものも拙いものもある、拙いものには非難が伴ふのも当然である。それでなくとも、流行には直ちに反対したくなる気持ちの人もある。それで随筆が人気に投じて流行を極めると、一方には又之を呪ふ声も聞える。人々が随筆を書いたり又読んだりするのは、畢竟思索の低落した為めだといふ。或はさういふこともあるかも
北原白秋
静かにすゝむ時の輪の 軋つたへて幽かにも―― 白光、小鳥にゆるゝごと 明日の香ゆらぐ夢の浪 薄紫にたゞよひて 白帆張りゆく霊の舟 円らに薫る軟かぜの 千里の潮の楽の音と 人が息吹は力ある いのちの韻、永久に 血の脈搏と大闇の 沈黙やぶりて響くまで―― 神澄みわたる雪の夜の 聖きひと夜を神秘なる 天の摂理と黙示との 悟うるべく厳かに 書万巻の廬をいでゝ 雪に清
田中貢太郎
八人みさきの話 八人みさきの話 田中貢太郎 「七人御先(みさき)」 高知市の南に当る海岸に生れた私は、少年の比(ころ)、よくこの御先の話を耳にした。形もない、影もない奇怪な物の怪(け)の話を聞かされて、小供心に疑いもすれば、恐れもしたものだ。 「彼(あ)の人は、七人御先に往き逢うたから、病気になった」 外出していて不意に病気になったり、頓死したりする者がある
太宰治
八十八夜 太宰治 諦めよ、わが心、獣の眠りを眠れかし。(C・B) 笠井一さんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに、呆けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ
喜田貞吉
昭和三年七月発行関西考古会の機関雑誌『考古』第三号において、余輩は未熟なる「曲玉考」一篇を発表して管見を学界に問うたことがあった。要はいわゆる曲玉なる名称が、今日の人々の普通に考うるごとく勾形をなす一種の玉のことではなく、本来はいわゆる玉の緒をもって数個の玉を連ねたもの全体の称呼であったというにある。しかしながら、当時材料すこぶる不備であって、その後新たに考
古川緑波
名古屋ってとこ、戦前から戦争中にかけて、僕は好きじゃなかった。名古屋へ芝居で来る度に、ああまた名古屋か、と、くさったものだ。というのは、食いものが、何うにも面白くなかった。 一口に言えば、名古屋ってとこ、粗食の都だったんじゃないか。それが、戦後は、変りましたね、食いもの屋の多いこと、贅沢になったこと、驚くべし。 だから、戦後は、名古屋行きは、苦にならない。
土田耕平
私が幼いころ、一ばんさきにおぼえた字は、八といふ字でありました。これは、先生から習つたのではない、山が教へてくれた字であります。 村のうしろに、雑木山が二つ向きあつてゐる間から、擂鉢をふせたやうな形の山が、のぞいてゐて、そのまん中どころに、大きな八の字が書いてあるのです。それは、岩のかたまりが、裾ひろがりに二すぢ長くつづいてゐるのでしたが、とほくから見ると、
土田耕平
八ノ字山の 八ノ字ゴウロ 雪がこんこん ふつてゐる どこのお家も 戸をしめて 昼まも夜さも 知らん顔 冬の神さま 早よ去んで あかるい春に なつてくれ 八ノ字ゴウロに 菫が咲いて 雉子がケンケン なく春に ●図書カード
亀井勝一郎
私は北海道の南端の海辺に育ったので、若いときから山国というものが大へんめずらしかった。 北海道も石狩平野から奥へすすむと山国同様だが私はその地方は殆んど知らない。朝夕に津軽海峡を眺めて暮してきたので、周囲の全部が山また山という風景に接すると異様な感じを与えられる。初夏のみどりで全山が蔽われ、眼にうつるもの悉くみどりといった中で、私は目まいしそうな状態になるこ