小説中の女
豊島与志雄
小説中の女 豊島与志雄 その日私は、鎌倉の友人の家で半日遊び暮して、「明日の朝から小説を書かなければならない」ので、泊ってゆけと勧められるのを無理に辞し去って、急いで停車場へ駆けつけ、八時四十何分かの東京行きの汽車に、発車間際に飛び乗った。そして車室の、人の少い程よい場所をちらっと見定めて、帽子とステッキとを網棚の上に投り上げながら、足先の力を抜いて深々と腰
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豊島与志雄
小説中の女 豊島与志雄 その日私は、鎌倉の友人の家で半日遊び暮して、「明日の朝から小説を書かなければならない」ので、泊ってゆけと勧められるのを無理に辞し去って、急いで停車場へ駆けつけ、八時四十何分かの東京行きの汽車に、発車間際に飛び乗った。そして車室の、人の少い程よい場所をちらっと見定めて、帽子とステッキとを網棚の上に投り上げながら、足先の力を抜いて深々と腰
田山花袋
何うも、事実を書くと、兎角平凡になり勝である。なら想像で拵へ上げたものは何うかと言ふのに、これも本当でないので、矢張面白くない。兎角、その奥が見透かされさうになる。 苟も小説家である以上、自分の経験したものばかりを――つまり Ich-Roman ばかりを書いてゐるのでは、甚だ物足らない。何うかしてあらゆる種類の人物を紙上に活躍させたい。あらゆる世間の状態を書
永井荷風
一 小説はいかにして作るものなるやどういふ風にして書ものなりやと問はるる人しばしばあり。これほど答へにくき問はなし。画の道ならば『芥子園画伝』をそのままに説きもいづべく油画ならばまづ写生の仕方光線の取方絵具の調合なんど鴎外西崖両先生が『洋画手引草』にも記されたりと逃げもすべきに、小説かく道といひては原稿紙買ふ時西洋紙はよしたまへ、日本紙ならば反古も押入の壁や
豊島与志雄
小説の内容論 豊島与志雄 小説の書かれたる内容が問題となってもいい位に、吾国の小説界は進んでいると思う。またそれを問題となさなければならない位に、小説界は或る壁に突き当っていると思う。 私は今、「書かれたる内容」と云った。このことについて、一言しておく必要がある。 如何なる材料を取扱おうと、それは作者の自由である。愚劣なる人物を描こうと、或は賢明なる人物を描
正岡容
小説 圓朝 あとがき 正岡容 昨夏四十有余枚書きだした『圓朝』はあまりにも伝記の擒となってしまっていたため、こころに満ち足らわず、ハタと挫折したまま八月九月十月十一月と徒らな月日が立っていってしまった。十一月末日、修善寺へ。そこの湯宿の一室にして、年少の日の圓朝が切磋琢磨の修業の上に自分自身を見出したことによって初めて私は、豁然と音立てて心の壁の崩れ落ちるも
萩原朔太郎
芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて読んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと楽しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されているも
田山花袋
若い人達の為めに、小説を書くに就いて、私の経験した作法見たいなものを書いて見る。 長年私は投書を見て来てゐるので、諸君が何ういふ作をするか、何ういふ風に小説といふものを考へてゐるか、また何ういふ風に無益の努力をやつてゐるかといふことを知つてゐる。私の見たところでは、諸君の小説を書く態度は浮気である。移気である。ちょいと面白いから書いて見る位のところである。そ
宮本百合子
『新日本文学』に「町工場」という小説を発表した小沢清という若いひとが、「軍服」という小説をかいた。小沢清は勤労者の生活をしながら小説をかくようになった青年である。 まだ試作というべき作品であるが、「町工場」は、へんに凄んだり力んだりしたところのない勤労者のこころもちで、小さい町工場での若い勤労者の生活と、そこにいる気のよい、しかし古くさく自分の貧乏を体裁でご
豊島与志雄
本書の性質を一言しておく。 私は嘗て、李永泰なる人物を見まもっていた。彼の時折の行動について、四つの短篇小説を書いた。最後に、彼の決定的発展段階を示す中篇或は長篇を、書くつもりでいた。その時、彼の前面に、他の人物が大きく立ち現われてきた。如何なる人物であるかは、他日の作品に譲って茲には云うまい。そういうわけで、李永泰は一応このまま放棄することになった。放棄さ
宮本百合子
小説の読みどころ 宮本百合子 同志小林多喜二がボルシェヴィキの作家として実に偉かったところは、うむことないその前進性である。一つ一つの作品が必ず、それぞれに階級闘争の発展してゆく段階を何かの形で反映している。 われわれプロレタリア文学の仕事に従う者が、同志小林の業績によって深い鞭撻をうけるのは正にこの点である。彼が進み行く労農大衆の先頭に身を挺して立ち、その
宮本百合子
小説の選を終えて 宮本百合子 私のところへ送付された十数篇の応募原稿の中から、左の四篇を予選にのこして回覧した。予選には洩れたが、何かの意味で書き直したら作者の勉強になるだろうと考えられた作品にはそれぞれ寸評を加えて原稿を送りかえした。 今回は、大体に云って特にずばぬけた作品がなかったのは残念である。この次には大いに期待している。 「火葬場の下」 榎南謙一
豊島与志雄
短篇集を一冊まとめるについて、作品をあれこれ物色してるうちに、つい、近作ばかり集める結果となってしまった。時間的に距離の近いものほど、感情のつながりが濃いからであろうか。その代り、作品の出来栄えについては、却って自分には見えにくい。 校正刷を一覧したところ、淡々と書き進めた作品もあるけれど、それよりも、勝手気儘に書きちらした作品の方が多い。言いたいことを端的
豊島与志雄
本書に収められてる六つの小説は、みな、「近代伝説」として書かれたものである。 近代伝説とは、茲では、或る創作方法を謂うのであり、随って、作品の或る性格を謂うのである。 小説の苦渋があまりに多すぎるとするならば、その苦渋を乗り越えた愉しい境地はないものであろうか。人心があまりに老衰しているとするならば、その老衰を乗り越えた童心的な境地はないものであろうか。現実
豊島与志雄
茲に収められてるものは、都会の知識階級のおかしな物語である。これらの物語はみな、小悪魔の角度から眺められた。小悪魔は虚構の人物であるが、この場合、必要な創作技法であり、モラール探求の特殊な触手であった。だが、この類の物語を更に蒐集することに、小悪魔は退屈しないだろうけれど、作者は恐らく倦きるだろう。それ故作者はすぐに、少年正夫にとびついていった。正夫は結論で
豊島与志雄
ここに収めた作品はみな、近代説話として書いたものばかりである。近代説話というのは、私が勝手に造った名前で、或る一種の創作方法で書かれたもののことを指す。 終戦後、物が自由に書けるようになってから、私はおもに小説を書いた。そして作者としての私の関心は、おのずから直接現在の人間生活に向けられた。――太平洋戦争の結果は、わが国の社会状態に大変革の一線を引いた。この
豊島与志雄
戦乱の期間中、私は幾度か中華民国に旅して、おもに上海に滞留した。そして彼地の有力な精神の代表者の一人として、秦啓源を捉えた。その生活や思想や人柄に、或は逆に私の方が捉えられたのかも知れない。――この秦啓源のことを、私はだいたい本書の作品のなかで述べた。 戦後の激発期に、東京では実にさまざまな精神動向が見られた。その精神動向の代表的なものの一つとして、私は波多
豊島与志雄
終戦後私は、普通の小説を少しく書き、近代説話と自称する小説を多く書いた。この近代説話ものについては、聊か特殊の意図があったのである。 いったい、短篇小説では、作者が真に言いたいこと、つまり作品の中核は、煎じつめれば案外に僅かなもので、大部分は主としてそれへの肉付けとなる。主要人物の境遇とか環境とか生活様式とか、さまざまなものを書かなければならない。然し、作者
太宰治
小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。小説を読んで、襟を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。たと
黒島伝治
小豆島 黒島傳治 用事があって、急に小豆島へ帰った。 小豆島と云えば、寒霞渓のあるところだ。秋になると都会の各地から遊覧客がやって来る。僕が帰った時もまだやって来ていた。 百姓は、稲を刈り、麦を蒔きながら、自動車をとばし、又は、ぞろ/\群り歩いて行く客を見ている。儲けるのは大阪商船と、宿屋や小商人だけである。寒霞渓がいゝとか「天下の名勝」だとか云って宣伝する
小川未明
おそろしいがけの中ほどの岩かげに、とこなつの花がぱっちりと、かわいらしい瞳のように咲きはじめました。 花は、はじめてあたりを見て驚いたのであります。なぜなら、目の前には、大海原が開けていて、すぐはるか下には、波が、打ち寄せて、白く砕けていたからであります。 「なんというおそろしいところだ。どうしてこんなところに生まれてきたろう。」と、小さな赤い花は、自分の運
坂口安吾
「扨て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲つてゐた」―― といふ、これに似通つた流行唄の文句があるのだが、韮山痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲つてゐるに相違ない薄気味の悪い奴を時々考へてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思つた。 韮山痴川は一種のディレッタントであつた。顔も胴体ももくもく脹らんでゐて、一見土左
坂口安吾
「扨て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲っていた」―― という、これに似通った流行唄の文句があるのだが、韮山痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲っているに相違ない薄気味の悪い奴を時々考えてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思った。 韮山痴川は一種のディレッタントであった。顔も胴体ももくもく脹らんでいて、一見土左
国枝史郎
小酒井さんが長逝されました。私はボンヤリしています。同じ名古屋に住んでいたため特に親交があったからです。 医学者として大家であり、探偵文学者として一流であったことは世間周知のことと思いますが、私の知っている幾人かの実業家は小酒井さんのことをこのように申して居りました。 「小酒井さんは大事業家の素質を持っています。あの人が病身だということは如何にも残念です。健
平林初之輔
小酒井不木氏が死んだ。 生理学者として、法医学者としての博士については、私は、博士が非常に明晰な頭脳の所有者で医学界で期待されていたということだけしか知らぬ。実地の医学の方面では、闘病術その他の著者として、肺結核その他一般の慢性病の療法において抵抗療法の主唱者であり、一病一薬主義の正統派の治療法の反対者であったことくらいしか知らぬ。そしてまたここでは、博士の