寒の梅
宮本百合子
寒の梅 宮本百合子 一月○日 朝飯をたべて、暫く休んで、入浴してかえって横になっていると、傷の写真をとりますから腹帯はあとになすって下さいということだ。やがて、白い上っぱりを着た写真師が助手をつれて入って来て、ベッドに仰むきに臥ている自分の右側のおなかの傷に向って高いところからアングルをとって写してゆく。もういいのかと思ったら富田さんがいそいで来て、木村先生
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宮本百合子
寒の梅 宮本百合子 一月○日 朝飯をたべて、暫く休んで、入浴してかえって横になっていると、傷の写真をとりますから腹帯はあとになすって下さいということだ。やがて、白い上っぱりを着た写真師が助手をつれて入って来て、ベッドに仰むきに臥ている自分の右側のおなかの傷に向って高いところからアングルをとって写してゆく。もういいのかと思ったら富田さんがいそいで来て、木村先生
佐藤垢石
寒鮒 佐藤垢石 静寂といおうか、閑雅といおうか、釣りの醍醐味をしみじみと堪能するには、寒鮒釣りを措いて他に釣趣を求め得られないであろう。 冬の陽ざしが、鈍い光を流れにともない、ゆるい川面へ斜めに落として、やがて暮れていく、水際の枯れ葦の出鼻に小舟をとどめて寒鮒を待つ風景は、眼に描いただけで心に通ずるものがある。舟板に二、三枚重ねて敷いた座蒲團の上に胡座して傍
佐藤垢石
謹啓、余寒きびしくと申し上げ度く存じ候へ共、今年程暖かき例無之、お互に凌ぎよき春日に候。 さればにや、この頃鮒のみには無之冬寄致せし鮠、鰔などまでが俄かに巣離れの動作を見せ申しそぞろに釣意をそそられ、釣場の風景を眼に描き申候。堪まり兼ねて一昨日出発富士川に寒鮠釣を志し車中の人と相成候。下部温泉から約一里、屏風岩下流の大瀞は例年鮠の冬寄出来申す所に有之、彼の地
上村松園
寛政時代の娘納涼風俗 上村松園 月蝕は今迄余り多く描かれて居りませんから一度描いてみたいと胸に浮びましたのが動機です。 あの画は寛政の頃の良家の娘さんの風俗で夏の宵広い庭に降り立って涼を納れて居ります時に「今夜は月蝕だわ……」とふと思い付いて最も見易いように鏡を持ち出して写し取っている所です。空を仰いで眺めているのでは落ち着きがなくて如何にも軽くなりますので
直木三十五
寛永武道鑑 直木三十五 一 桜井半兵衛は、門弟に、稽古をつけながら (何故、助太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?) と、その理由を、考えていた。烈しく、突出して来る門弟の槍先を――流石に、修練した神経で、反射的に避けながら、声だけは大きく 「とう」 と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さが――門弟が (病気かしら) と、疑うまでに、無くなっていた。そ
林不忘
寛永相合傘 林不忘 一 つまらないことから、えて大喧嘩になる。これはいつの世も同じことだ。もっとも、つまらないことでなければ喧嘩なんかしない。隣家の鶏が庭へはいって来て、蒔いたばかりの種をほじくったというので、隣家へ談じ込んでゆくと、となりでは、あんたの犬が鶏を追い廻して困ると逆ねじを食わせる。そこで、こっちが、ええ面倒くせえ、やっちめえというんで、隣家の鶏
種田山頭火
寝床〔扉の言葉〕 種田山頭火 ここへ移って来てから、ほんとうにのびやかな時間が流れてゆく。自分の寝床――それはどんなに見すぼらしいものであっても――を持っているということが、こんなにも身心を落ちつかせるものかと自分ながら驚ろいているのである。 仏教では樹下石上といい一所不住ともいう。ルンペンは『寝たとこ我が家』という。しかし、そこまで徹するには悟脱するか、ま
平野零児
昨年の晩秋、福井ラジオの営業局長をしている池田左内君が上京のついでに、私の陋居を訪ねて来た。昔上智大学の新聞科で教壇というよりも、主として附近のオデン屋や、新宿の酒場え連れて行き、三、四の学生に他愛のない放談を聞かせただけだったが、彼はそのことで今に私を先生と呼び、教え子だったとしている一人であり、絶えず師の礼をとり、時々越前ガニや、ツグミやウニを送ってくる
内村鑑三
寡婦の除夜 内村鑑三 月清し、星白し、 霜深し、夜寒し、 家貧し、友尠し、 歳尽て人帰らず、 思は走る西の海 涙は凍る威海湾 南の島に船出せし 恋しき人の迹ゆかし 人には春の晴衣 軍功の祝酒 我には仮りの侘住 独り手向る閼伽の水 我空ふして人は充つ 我衰へて国栄ふ 貞を冥土の夫に尽し 節を戦後の国に全ふす 月清し、星白し、 霜深し、夜寒し、 家貧し、友尠し、
内藤湖南
寧樂 内藤湖南 寧樂 一 浪華三十日の旅寢、このたびは二度目の觀風なれば、さまでに目新らしくも思へず、東とはかはれる風俗など前よりは委しく知れる節もあれど、六十年の前に人の物せる「浪華の風」といふ一書、温知叢書の中に收められしといたく異なれりと見えざるは、世の移りかはり、疾しといへば、疾きが若きものから、又遲しといへば遲くもあるかな、面白かりしは此の間兩度の
佐藤春夫
探偵小説といふ言葉は、すでに余り面白い言葉でない。誰か何とかいゝ名称を附けかへてほしいやうな気がしてゐたが、そいつが探偵趣味といふ雑誌の名になつたのだから実は雑誌を見る度に内容は面白いと思ひながら名前には少々閉口してゐる。全く探偵趣味などは悪趣味だよ。同人諸君の中にも、聞けば同感の諸君があるさうだが、尤も今になつては、どう変へる事も出来ぬかも知れぬ。これは些
直木三十五
寺坂吉右衛門の逃亡 直木三十五 一 「肌身付けの金を分ける」 と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ 「順に」 と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が 「四十四、四十五、四十六っ」 と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、
中谷宇吉郎
わが師、わが友として、最も影響を受けた人たちと言えば、物心がついてから今日まで、私が個人的に接触したすべての人が、師であり友であった。 どういう人でも、よく見れば必ず長所があるので、その点を表立てて見ることにすれば、自分の接触する人は誰でも師であり、友であると、この頃私はかなり自然にそういう気持になっている。こういう心の持ち方は、明かに寺田寅彦先生の感化を少
中谷宇吉郎
寺田寅彦先生の連句の中に 春の夜や不二家を出でて千疋屋という句がある。 「銀座アルプス」や「珈琲哲学序説」などでよく分るように、先生は銀座へよく出かけられた。 先生は、毎日のように、十一時半頃になると、実験室へ顔を出され、「ちょっと失敬」といって、銀座へ出かけられた。そして月か不二家で、ゆっくり昼飯を食べて、珈琲をのんで、銀座をぶらぶらして、三時頃にまた理研
中谷宇吉郎
寺田寅彦という名前を、初めて知ったのは、たしか高等学校二年の頃であったように思う。 あの時代は、大正の中頃といえば、わが国の社会運動の勃興時代であった。河上博士の『貧乏物語』が、高等学校の学生たちの間に熱心に読まれていた。『中央公論』や『改造』の外に、新しく『解放』という雑誌も出て、それ等がいずれも、その方面の論文で雑誌の大半をうずめ、こぞって社会運動の烽火
中谷宇吉郎
巻頭の一文でちょっと触れたように、我が国の現状は、寺田寅彦の再認識を必要とする時期に到達しているように思われる。 尾崎行雄氏が、われわれは自由を獲た。しかしそれは最も悲しむべき状態に於てそれを獲たというような意味のことを言われた。それと同じ意味で、私たちの祖国は、今寺田物理学を再認識しなければならない悲しむべき境遇にある、と少なくもこの頃私はそう思うようにな
永井荷風
雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋の方へ少し行くと、左側の路端に乗合自動車の駐る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町への曲角で、人の込合う中でもその最も烈しく込合うところである。 ここに亀戸、押上、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木から新宿、金町などへ行く乗合自動車が駐る。 暫く立って見てい
今野大力
古典の縁起を語れる大楼門の右にて感ずるは極めてあわれなる庶民等が心中ぞ土に生くるものの幸を忘れて自己等が建つるこの寺院に拠り魂のざんげをせん人々のかなしさぞ *鳥けものの屍土に在りて此処は人の香もせざりし頃より未だ幾年を経しか魂は未だに限りもなく深山幽谷の彼方に憧れあるに愚かなる望郷の者達はここにあり往かんとせじせめては古典のめぐしみに会せんとのみ願え
喜田貞吉
名称廃止以前のエタに対する幕府その他諸藩当路者の発した布告法令の文を見ると、その圧迫の甚だしかった状態は、実に悪寒戦慄を覚えしむるものがある。まず一例として、「穢多非人廃止令」の出た明治四年八月より僅かに八ヶ月前、五条の御誓文に於いて旧来の陋習を破りて天地の公道に基づくべしと宣し給える明治元年三月より三十三ヶ月の後なる、明治三年十二月に、和歌山藩が発した取締
長塚節
對州嚴原港にて 長塚節 對州へ渡るには博多から夜出て朝着く。博多へ渡るにもさうである。汽船は荷物を主にして居るのだから客少くして我々はみじめである。何處へ行つても朝鮮といふことをいふ。釜山なども對州の人が眞先に行つてそれから壹州の人間が行つて開いた相だ。北の方へ行つて見ると面白相だが船は不便だし陸路は險惡だし病人には迚も駄目だ。丈夫の人がゆつくり歩いて居るの
宮沢賢治
嘆きあひ 酌みかふひまに 灯はとぼり 雑木は昏れて 滝やまた 稜立つ巌や 雪あめの ひたに降りきぬ 「ただかしこ 淀むそらのみ かくてわが ふるさとにこそ」 そのひとり かこちて哭けば 狸とも 眼はよぼみぬ 「すだけるは 孔雀ならずや ああなんぞ 南の鳥を ここにして 悲しましむる」 酒ふくみ ひとりも泣きぬ いくたびか 鷹
蒲松齢
范十一娘は※城の祭酒の女であった。小さな時からきれいで、雅致のある姿をしていた。両親はそれをひどく可愛がって、結婚を申しこんで来る者があると、自分で選択さしたが、いつも可いというものがなかった。 ちょうど上元の日であった。水月寺の尼僧達が盂蘭盆会を行ったので、その日はそれに参詣する女が四方から集まって来た。十一娘も参詣してその席に列っていたが、一人の女が来て
折口信夫
紙治で唸らされた印象のまだ消えやらぬ東京人士の頭に、更にその俤を深むる為に上つて来た鴈治郎の忠兵衛。観客の予期と成駒屋の自信と、如何程まで一致したか。其は感情派の批評に任せて、自分は唯旧大阪の遊廓の空気と、浪花風の各種の性格とが、各優人の努力によつて、何れ位実現せられたか、其紹介をすれば足る悠々たる客観党。二階正面の桟敷に陣どつて、前山の雲と脂下る。 女寅の
竹内浩三
松の木山に銃声がいくつもとどろいた 山の上に赤い旗がうごかない雲を待っている 銃声が止むと ごとんごとんと六段返しみたいに的が回転する おれの弾は調子づいたとみえて うつたびに景気のいい旗が上った おれの眼玉は白雲ばかり見ていた ●図書カード