Vol. 2May 2026

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手紙 059 慶応三年三月二十四日 坂本春猪あて

坂本竜馬

猶南町むばにもよろしく御伝へ御たのみ申あげ候。御文難レ有、然ニ御ちうもんの銀の板うちのかんざしと云ものに、京打、江戸打と云あり、板打中にも色々の通り在レ之、画図でも御こしなれバ、わかり可レ申候。然りといへども後便ニ一つさし出し可レ申と存じ候。御まち、かしこ。 三月廿四日龍呈 ふぐの春猪様御前へ龍馬 ●図書カード

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手紙 061 慶応三年四月七日 坂本乙女あて

坂本竜馬

私しが土佐に帰りたりときくと、幕吏が大恐れぞ、はやきおもみ申候。四方の浪人らがたずねてきて、どふもおかしい。近日京ニ後藤庄次郎どのおらんと思ひ候。其時ハ伏見の寺田やでやどかり、伏見奉行をおそれさしてやろふとぞんじおり候。 何かさしあげ度候得ども、鳥渡これなく白がねきひときさしあげ候。 御めしものニ被レ成候得バ、ありがたし。かしく。 四月七日龍馬乙様 ●図書カ

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手紙 062 慶応三年四月初旬 坂本乙女あて

坂本竜馬

扨も/\、御ものがたりの笑しさハ、じつにはらおつかみたり。秋の日よりのたとへ、もつともおもしろし笑しと拝し申候。私事かの浮木の亀と申ハ何やらはなのさきにまいさがりて、日のかげお見る事ができぬげな。此頃、みよふな岩に行かなぐり上りしが、ふと四方を見渡たして思ふニ、扨世の中と云ものハかきがら計である。人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい、

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手紙 064 慶応三年四月二十八日 菅野覚兵衛、高松太郎あて

坂本竜馬

拝啓。然に大極丸は後藤庄次郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其まゝ御修業被レ成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不レ計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船直横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ

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手紙 065 慶応三年五月五日 三吉慎蔵あて

坂本竜馬

此度の御志の程、士官の者共に申聞候所、一同なんだおはらい難レ有がりおり申候。再拝。 拝啓。 昨日御申聞被レ遣候事共、実に生前一大幸、言語を以て不レ可レ謝御事ニ御座候。然ニ先日此地を上方に発る時ニ福田扇馬殿、印藤猪、荻野隣、羽仁常諸兄御出崎被レ成、土人の名を以御修行被レ成度御事ニ付、御やく束仕候所、不レ計此度の危難、又此度も上件の諸兄に御面会仕候所、諸君皆云、

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手紙 066 慶応三年五月七日 伊藤助太夫あて

坂本竜馬

覚書二条一、此度の出崎ハ、非常の事件在レ之候ニ付、留守ニ於も相慎可レ申、然レバ信友のものといへども、自然堂まで不レ参よふ、御玄関御番衆まで御通達被レ遣度候事。一、私し留守ニて他所より尋来り候もの、或ハ信友と雖ども、一飯一宿其事一切存不レ申事。 右の事ニ仕度候間、宜御頼申上候。拝首。五月七日龍茶翁先生左右 ●図書カード

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手紙 067 慶応三年五月七日 伊藤助太夫あて

坂本竜馬

追白、御案内の通り此度長崎ニ出候得バ、いかゞ相成候や不レ被レ計候得バ、左の覚さし 舌代出し置候。 一、兼而私ら両人の所ハ三印両兄聞取ニ相成、御家に止宿御頼申候事故、私両人生活の一事ハ一切上の両兄に御引合可レ被レ遣候。一、私方物好ニて他人呼入候て、費用在レ之分ハ、一切私方よりさし出し申候。(但月末/\ニ算用相立候。) もし又私方心付不レ申分ハ、御台所奉行より書

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手紙 068 慶応三年五月八日 三吉慎蔵あて

坂本竜馬

此度出崎仕候上ハ、御存(知)の事件ニ候間、万一の御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り返し可レ申、然レバ国本より家僕及老婆壱人、御家まで参上仕候。其間愚妻おして尊家に御養置可レ被レ遣候よふ、万御頼申上候。拝稽首。 五月八日龍馬慎蔵様左右三吉慎蔵様坂本龍馬御直披五月八日出帆時ニ認而家ニ止ム。卯(朱印) ●図書カード

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手紙 070 慶応三年五月中旬 寺田屋伊助あて

坂本竜馬

拝啓。 益御安泰奉二大賀一候。然ニ私儀此頃老主人よりよび帰しニ相成候て、国許ヘハ不レ帰、其まゝ長崎ニ於て、兼而召つれ候人数を御あづけ被レ申ことにて、私おして海援隊長と申付、則長崎ニて一局を開キ諸生のセ話致し申候。此頃主人の用物を大坂ニ送り候道にて、備後箱の岬のおきニて紀州明光丸と申船が、私のの船の横に乗掛候て、不レ計も私しの船ハ沈没仕候間、是より又長崎の方へ

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手紙 073 慶応三年五月中下旬頃 高柳楠之助あて

坂本竜馬

一翰致二敬呈一候。然ハ先夜御別後、広く世界之数例を推し候処、御船を以再度衝突被レ成候ニ依而致二沈没一候事故、何分貴方より其条理御立被レ下候事、必然之道理ト相聞へ申候。去ル四月鞆津御談判之節、世界之公法ニより処置可レ致御定約仕候通、於二当地一早御決着可レ被レ遣候筈之処、先夜之御議論ニ者世界之公法トハ幕府之御処置相願い候上の事ト被レ仰聞候。其儀なら者、当時大樹公

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手紙 074 慶応三年五月二十七日 高柳楠之助あて

坂本竜馬

今日も鬱陶しき天気に御座候。愈御佳安奉レ賀候。然れば昨日官長罷出、茂田君と御約定申上候通、今廿七日英国水師提督に対面之儀者、第十字より彼船に御同行申度奉レ存候間、此段御通達申上候。当方へ御入来被レ下候や。又当方より罷出可レ申や。御返事此者へ為二御聞一被レ下度如レ此御座候。以上。 五月廿七日才谷梅太郎高柳楠之助様 ●図書カード

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手紙 075 慶応三年五月二十八日 お龍あて

坂本竜馬

其後ハ定而御きづかい察入候。 しかれバ先ごろうち、たび/\紀州の奉行、又船将などに引合いたし候所、なにぶん女のいゝぬけのよふなことにて、度々論じ候所、此頃ハ病気なりとてあわぬよふ(に)なりており候得ども、後藤庄次郎と両人ニて紀州の奉行へ出かけ、十分にやりつけ候より、段々義論がはじまり、昨夜今井・中島・小田小太郎など参り、やかましくやり付候て、夜九ツすぎにかえ

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手紙 076 慶応三年五月二十八日 伊藤助太夫あて

坂本竜馬

其後ハ益御勇壮可レ被レ成二御座一奉二大賀一候。然ニ彼紀州の船の儀論段申上り、明日か今日か戦争とヒシメキ候中、後藤庄次郎も大憤発ニてともに骨折居申候。此頃長崎中の商人小どもニ至るまで、唯紀州をうての紀州の船をとれのと、のゝしり候よふ相成、知らぬ人まで戦をすゝめに参り申候。紀州とハ日談論とふ/\やりつけ今朝より薩州へたのみてわびを申出候得ども、是迄段々無礼致候事

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手紙 078 慶応三年五月二十八日 伊藤助太夫あて

坂本竜馬

此度さし出セし曽根拙蔵にハ、大兄よりも色御咄合可レ被レ遣候。そして此男に下の関の唐物やに御申聞、皆此拙蔵に御引合可レ被レ遣候。三吉大夫ニもくハ敷御申被レ成候得バ、此拙蔵ハ何でも出来ることだけハ御定約仕候間、御国の御為にも、よ程相成、私の国ニもつがふよろしく商談相立可レ申候と存候。不具。 五月廿八日 九三先生才谷机下 ●図書カード

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手紙 079 慶応三年五月二十九日 小谷耕蔵、渡辺剛八あて

坂本竜馬

先達てイロハ丸紀州軍艦の為めに衝突被レ致、遂及二沈没一候儀に付、薩州五代才助、紀の内意により度々後藤象次郎へ誤出、何分対二薩州一不レ得レ止訳に相成、一先五代之申条に任せ候処、今日紀の官長、後藤へ罷越、重々誤入候趣申に付、許し遣し候。尤、船貨公物並に水夫旅人手廻之品に到る迄、一切償金相立候定に候。此条、官長より被二申聞一候間、御掛合申上候。以上。 五月廿九日才

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手紙 081 慶応三年六月二十四日 坂本権平あて

坂本竜馬

一筆啓上仕候。益御安泰可レ被レ成二御座一愛度御儀奉レ存候。降而私儀無異乍レ不レ及国家之御為日夜尽力罷在候。乍二失敬一御安慮可二仰付一候。然ニ先頃西郷より御送被レ遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候。此頃毛利荒次郎出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の賜なりとてホコリ候事ニて御座候。此頃出京役人ニも度会

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手紙 082 慶応三年六月二十四日 乙女、おやべあて

坂本竜馬

今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみしたゝめました。当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候。 清二郎ニ御頼の御書同人より受取拝見仕候。同人も兼而御申越ニてよろしき人物とてよろこび候所、色咄聞候所何もをもわくのなき人ニて、国家の御為命すてるにくろふハせぬ位なものニて、当時私ハ諸生五十人斗ハつれており候得ども、皆一稽古も出来き

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