蕎麦餅
田中貢太郎
蕎麦餅 田中貢太郎 唐の元和年中のことであった。許州の趙季和という男が東都に往く要事が出来たので、家を出て卞州の西になった板橋店まで往った。 その板橋店には三娘子という宿屋があった。そこには三娘子という独身者の寡婦がいて、永い間旅人に食物を売る傍ら、数多の驢馬を飼って非常に安価で売るので、板橋店の三娘子といえば驢馬の店としても有名であった。旅人の季和も一泊り
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田中貢太郎
蕎麦餅 田中貢太郎 唐の元和年中のことであった。許州の趙季和という男が東都に往く要事が出来たので、家を出て卞州の西になった板橋店まで往った。 その板橋店には三娘子という宿屋があった。そこには三娘子という独身者の寡婦がいて、永い間旅人に食物を売る傍ら、数多の驢馬を飼って非常に安価で売るので、板橋店の三娘子といえば驢馬の店としても有名であった。旅人の季和も一泊り
長沢佑
三月の午後雪解けの土堤っ原で子供らが蕗のとうを摘んでいるやせこけたくびすじ血の気のない頬の色 ざるの中を覗き込んで 淋しそうに微笑んだ少女の横顔のいたいたしさ おお、飢えと寒さの中に今も凶作地の子供達は熱心に蕗のとうを摘んでいる 子供等よ!お前らの兄んちゃんは何をして警官に縛られたのか何の為に満洲へ送られて行ったのか姉さん達はどうして都会から帰って来たのかお
新村出
十数年このかた冬から春へかけて蕗の薹を嗜食するやうになつたが、もとは確か咳嗽の薬だとか云つて亡き母がどこからか貰つて来たのを、塩からく烹させて食べたのから始まつたと思つてゐる。 少年のとき、朝のおつけに、あれを刻み込んで父がさもうまさうに味つてゐたのを、それこそ苦々しさうに眺めてゐたことも覚えてゐる。 近年は毎季しばしばそれを賞美して独り悦に入つて、時には『
尾上梅幸
薄どろどろ 尾上梅幸 ▲幽霊の家柄でいて、幽霊種がないというのはちと妙なものですが、実際私の経験という方からいっては、幽霊談皆無といっても可いのです、尤もこれは幽霊でない、夢の事ですが、私を育ててくれた乳母が名古屋に居まして、私が子供の内に銀杏が好で仕様がないものだから、東京へ来ても、わざわざ心にかけて贈ってくれる。ああ乳母の厚意だと思って、いつもおいしく喰
北大路魯山人
今日は簡単に薄口醤油の話をしてみたいと思う。なぜなら、よい料理を作ろうとするには、醤油は重大問題だからだ。 東京人は、主として濃口醤油をもって調理するが、これは深く考えて欲しいものだ。関西の料理は薄口醤油を用いているが、関東に昔から伝わる江戸料理は薄口醤油のあることさえ知らないようで、関西龍野の薄口醤油などほとんど利用されていない。東京人の口福のためにまこと
太宰治
薄明 太宰治 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七にな
マラルメステファヌ
薄紗の帳たれてあれど、 こよなき「あそび」は思ふらく、 げにもゆゆしき涜かな、 徒なりや床は無し。 この一面に白妙の 房と房とのからみあひ、 蒼みて曇る玻璃の戸を 空しく打つて事も無し。 されど黄金の夢の身には 樂の音籠もる虚のなか、 琵琶悲しげに眠りゐて、 いづこのか知らねども、 よそにはあらず、われとわが 胎より生るる子はあらむ。 註―― Une den
小川未明
家の前に柿の木があって、光沢のない白い花が咲いた。裏に一本の柘榴の木があって、不安な紅い花を点した。その頃から母が病気であった。 村には熱病で頭髪の脱けた女の人が歩いている。僧侶の黒い衣を被たような沈鬱な木立がある。墓石を造っている石屋があれば、今年八十歳の高齢だからというので、他に頼まれて盲目縞の財布を朝から晩まで縫っている頭巾を被った老婆が住んでいる。
夏目漱石
薤露行 夏目漱石 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに
折口信夫
久しく絶えてゐた薪能が復活して、こゝに再、恒例の行事となつたのは、近年のことである。志深い大和侍の児孫と称する人があつて、南都の神事芸能を興すことを以て、偏に祖先にこたへる道と信じ、世の思議を越える奇特を行つたことによるのである。 旧日本の民俗には、年の初め一月望日に御薪を積んで、平常仕へる所に勤労の誠を示す風、既に飛鳥の宮廷記録があり、現に「小正月」の習俗
岡本綺堂
薬前薬後 岡本綺堂 草花と果物 盂蘭盆の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆れた。急性の胃痙攣である。医師の応急手当で痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥を啜る。おなじような養生法を半月以上も繰返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病
小川未明
どこからともなく、北国に、奇妙な男が入ってきました。 その男は黄色な袋を下げて、薬を売って歩きました。夏の暑い日に、この男は村から村を歩きましたが、人々は気味を悪がって、あまり薬を買ったものがありません。 けれど、男は根気よく、日盛りをかさをかぶって、黄色な袋を下げて、 「あつさあたりに、食べあたり、いろいろな妙薬」といって、呼び歩きました。 子供らは、人さ
小川未明
荷物を背中に負って、薬売りの少年は、今日も知らぬ他国の道を歩いていました。北の町から出た行商群の一人であったのです。 霜解けのした道は、ぬかるみのところもあるが、もう日の光に乾いて、陽炎の上っているところもありました。村はずれに土手があって、大きな木が立っていました。かさのように枝を空へ拡げていました。 「なんの木だろうな。」 少年は、よくこうした景色を見る
織田作之助
薬局 織田作之助 その男は毎日ヒロポンの十管入を一箱宛買いに来て、顔色が土のようだった。十管入が品切れている時は三管入を三箱買うて行った。 敏子は釣銭を渡しながら、纒めて買えば毎日来る手間もはぶけるのにと思ったが、もともとヒロポンの様な劇薬性の昂奮剤を注射する男なぞ不合理にきまっている。然し敏子の化粧はなぜか煙草屋の娘の様に濃くなった。敏子は二十七歳、出戻っ
田中貢太郎
――これは、私が近比知りあった医学士のはなしであります―― 私の父と云うのは、私の家へ養子に来て、医師になったものでありまして、もとは小学校の教師をしておりました。其の当時は、医師に免許状を持たした時で、それまで医師をやっていた家へは、内務省からお情け免状をくれました。で、父は祖父が亡くなりますと、其のまま家業を継いで医師になりました。 父が亡くなった時が七
島崎藤村
藁草履 藁草履(わらぞうり) 島崎藤村 長野県北佐久郡岩村田町大字金(かね)の手(て)の角にある石が旅人に教えて言うには、これより南、甲州街道。 この道について南へさして行くと、八つが岳(たけ)山脈の麓(ふもと)へかけて南佐久の谷が眼前(めのまえ)に披(ひら)けております。千曲川(ちくまがわ)はこの谷を流れる大河で、沿岸に住む人民の風俗方言も川下とは多少違う
田中貢太郎
これは東京の芝区にあった話である。芝区の某町に質屋があって、そこの女房が五歳か六歳になる女の子を残して病死したので、所天は後妻を貰った。 後妻と云うのは、気質の従順な、何時も愉快そうな顔をしている女で、継子に対しても真の母親のような愛情を見せたので、継子も非常に懐いて、所天も安心することができた。 が、その後妻が、しばらくすると黙り込んで、あまり口数を利かな
田中貢太郎
玄関の格子戸がずりずりと開いて入って来た者があるので、順作は杯を持ったなりに、その前に坐った女の白粉をつけた眼の下に曇のある顔をちょと見てから、右斜にふりかえって玄関のほうを見た。そこには煤けた障子が陰鬱な曇日の色の中に浮いていた。 「何人だろう」 何人にも知れないようにそっと引越して来て、まだ中一日たったばかりのところへ、何人がどうして知って来たのだろう、
久生十蘭
享保四年の秋、遠州新居の筒山船に船頭左太夫以下、楫取、水夫十二人が乗組んで南部へ米を運んだ帰り、十一月末、運賃材木を積んで宮古港を出帆、九十九里浜の沖合まで来たところで、にわかの時化に遭った。海面いちめんに水霧がたち、日暮れ方のような暗さになって、房総の山々のありかさえ見わけのつかぬうちに、雷雨とともに、十丈もあろうかという逆波が立ち、未曽有の悪潮に揉まれ揉
寺田寅彦
藤の実 寺田寅彦 昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅のものの話によると、きょうの午後一時過ぎから四時過ぎごろまでの間に頻繁にはじけ、それが庭の藤
島崎藤村
長いこと私は民話を書くことを思ひ立つて、未だにそれを果さずにゐますが、このいろはがるたもそんな心持から作つて見ました。私の『幼きものに』や、『ふるさと』や、『をさなものがたり』は、形こそ童話でありますが、その心持は民話に近いやうに、子供のために作つたこのいろはがるたも矢張それに近いものです。子供よ、來て遊べ、と言つて、父母も一緒に遊んで下さい。 い 犬も道を
島崎藤村
若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に 遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新し
寺田寅彦
藤棚の陰から 寺田寅彦 一 若葉のかおるある日の午後、子供らと明治神宮外苑をドライヴしていた。ナンジャモンジャの木はどこだろうという話が出た。昔の練兵場時代、鳥人スミスが宙返り飛行をやって見せたころにはきわめて顕著な孤立した存在であったこの木が、今ではちょっとどこにあるか見当がつかなくなっている。こんな話をしながら徐行していると、車窓の外を通りかかった二三人
田中貢太郎
憲一は裏庭づたいに林の方へ歩いて往った。そこは栃木県の某温泉場で、下には澄みきったK川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。松杉楢などの疎に生えた林の中には、落ちかかった斜陽が微な光を投げていた。そこには躑躅が咲き残り、皐月が咲き、胸毛の白い小鳥は嫩葉の陰で囀っていた。そして、松や楢にからまりついた藤は枝から枝へ蔓を張って、それからは天