試験管
寺田寅彦
試験管 寺田寅彦 一 靴のかかと 夏になったので去年の白靴を出して見ると、かかとのゴムがだいぶすり減っている。靴自身も全体にだいぶひどくなっているから一つ新調することにした。買いに行った店にはゴムのかかとのが無かったのでそのかわりに、かかとの一隅に小さな三角形の鉄片を打ちつけたのをなんの気なしに買って来た。それで、古いほうの靴は近所の靴屋へ直しにやって、そう
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寺田寅彦
試験管 寺田寅彦 一 靴のかかと 夏になったので去年の白靴を出して見ると、かかとのゴムがだいぶすり減っている。靴自身も全体にだいぶひどくなっているから一つ新調することにした。買いに行った店にはゴムのかかとのが無かったのでそのかわりに、かかとの一隅に小さな三角形の鉄片を打ちつけたのをなんの気なしに買って来た。それで、古いほうの靴は近所の靴屋へ直しにやって、そう
宮沢賢治
一九二六、一一、四、 途中の空気はつめたく明るい水でした 熱があると魚のやうに活溌で そして大へん新鮮ですな 終りの一つのカクタスがまばゆく燃えて居りました 市街も橋もじつに光って明瞭で 逢ふ人はみなアイスランドへ移住した 蜂雀といふ風の衣裳をつけて居りました あんな正確な輪廓は顕微鏡分析の晶形にも 恐らくなからうかと思ふのであります
梶井基次郎
一顆の檸檬を買い来て、 そを玩ぶ男あり、 電車の中にはマントの上に、 道行く時は手拭の間に、 そを見 そを嗅げば、 嬉しさ心に充つ、 悲しくも友に離りて ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、 セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、 マチス 心をよろこばさず、 独り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、 秘やかにレモンを探り、 色のよき 本を積み重ね、 その
草野天平
詩人といふ者 草野天平 詩のやうなものをただ書きさへすれば、それでもう詩人だといふやうなことは絶対に云へない。志を持つ人、といふと少し固く道徳的な感じがするが、少くともその感じに非常に近い、或る充実して爽やかな気持を得るために歩く人、又は歩き得た人、これこそ間違のない真の詩人だといふ気がする。 詩といふのは、この綺麗な道中の無言の姿であるか、或ひは真の一声で
堀辰雄
「吾人の賞美する建築は、その建築家が目的によく副ふやうな手段を用ひて、その柱が、エレクションの麗はしき人像柱の如く、上にかかる重みを苦もなく輕々と支へてゐるやうな建築である。」 アンリ・ポアンカレ さて、いま僕らの努力してゐるのは、詩を文學から引離すことである。文學はもはや手品師がクリストに似てるやうにしか詩に似てゐない。多くの人々は文學によつて手品によつて
中谷宇吉郎
「絵なき絵本」には、たいへん立派な作品がある。 それにあやかるというのも不遜な話であるが、「詩なき詩論」を考えてみようという気になった。それは表題の「詩人への註文」という無理な題を押しつけられた苦しまぎれに、ふと頭に浮んだテーマである。 私はほとんど詩を読まない。別に理由はないので、面白味がよく分らないからである。昔高等学校時代には、御同様に文学熱に少々浮か
中原中也
私はもう歌なぞ歌はない 誰が歌なぞ歌ふものか みんな歌なぞ聴いてはゐない 聴いてるやうなふりだけはする みんなたゞ冷たい心を持つてゐて 歌なぞどうだつてかまはないのだ それなのに聴いてるやうなふりはする そして盛んに拍手を送る 拍手を送るからもう一つ歌はうとすると もう沢山といつた顔 私はもう歌なぞ歌はない こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない (一九三五・
中原中也
詩と其の伝統 中原中也 何時誰から聞いたのだつたか覚えないが、かういふことを聞いたことがある。 山奥の村に、新しく小学校が設けられる。小学校では、毎年創立記念日に学童の作品展覧会が催される。尋常五年生は毎年関東地方の地図を出品するといふことになる。最初の年には三ちやんが一等賞になる。二年目には五※ちやんが一等賞をとる。かうして五六年目頃までは、年々、一等は一
萩原朔太郎
先に詩集「鐵集」で、これが最後の詩集であると序文した室生君は、いよいよ雜誌に公開して詩への告別を宣言した。感情詩社の昔から、僕と手をたづさへて詩壇に出て、最初の出發から今日まで、唯一の詩友として同伴して來た室生君が、最後の捨臺詞を殘して告別したのは、僕にとつて心寂しく、跡に一人殘された旅の秋風が身にしみて來る。 室生君の告別演説には、自己に對する反省と苛責と
中原中也
今までの詩(新体詩)は熱つぽいと思ふ。それはつまり様々の技法論が盛んで、分析的な気持が強かつたからであると思ふ。私は今度はじめてさういふ気持を味はつた。つまり子供の時のやうな気持に帰つた。つまり水が低きにつく如く、花がひそやかであるが如き気持がなければ、詩は駄目だと思つた。さういふ気持になるには、己を空うせねばならない。 あまりに自我の強い芸術は、無意識、つ
中原中也
詩壇は今や、一と通りの準備をすませた。絵の具も画架も揃ひ、まづまづ龍は描いたが、まだ点睛がないといふのが昨今の状勢である。従つて各人各様の特質にも拘らず、可なり大同小異の観があることは脱れられない。扨今後その中の若干なり未知の人なりが点睛を示し始める時、詩壇ははじめて面白くなるのであらうと私は思つてゐる。 そんな次第であるから、今私は「私の推賞する詩人」とい
三遊亭円朝
詩好の王様と棒縛の旅人 三遊亭円朝 昔時シヽリーといふ島のダイオインシアスといふ国王がございました。此の王が好んで詩を作りますが、俗にいふ下手の横好きで、一向上手でございません。けれども自分では大層上手なつもりで、自慢をして家来に見せますると、国王のいふ事だから、家来が決して背きませんで、「どうも誠に斯様な御名作は出来ませんもので、実に御名作で、天下に斯様な
寺田寅彦
詩と官能 寺田寅彦 一 清楚な感じのする食堂で窓から降りそそぐ正午の空の光を浴びながらひとり静かに食事をして最後にサーヴされたコーヒーに砂糖をそっと入れ、さじでゆるやかにかき交ぜておいて一口だけすする。それから上着の右のかくしから一本煙草を出して軽くくわえる。それからチョッキのかくしからライターをぬき出して顔の正面の「明視の距離」に持って来ておいてパチリと火
桜間中庸
永い間「影のリズム」といふ言葉を私は獨り考へて來た。「影のリズム」といふ言葉は私が獨自の私の意圖する童謠の世界に雄飛させようと務めて來たものであつたが今やつとそれの一端にはつきりした認識を得ることが出來たと思ふのである。 童謠の本體について各人各樣の意見を持つてゐるが、私が現代の童謠の上に更に新しく意圖するものは自由律童謠とでもいはうか、勿論童詩といふものが
国木田独歩
詩想 国木田独歩 丘の白雲 大空に漂う白雲の一つあり。童、丘にのぼり松の小かげに横たわりて、ひたすらこれをながめいたりしが、そのまま寝入りぬ。夢は楽しかりき。雲、童をのせて限りなき蒼空をかなたこなたに漂う意ののどけさ、童はしみじみうれしく思いぬ。童はいつしか地の上のことを忘れはてたり。めさめし時は秋の日西に傾きて丘の紅葉火のごとくかがやき、松の梢を吹くともな
岸田国士
「詩歌の午後」について 岸田國士 私が詩歌の朗読について考へはじめたのは、ずゐぶん久しい前からである。 日本人は詩歌を愛する国民として、他の如何なる国民にも劣らないのに、その詩歌の精神が、近頃どういふものか、われわれの日常生活から、われわれの協同の仕事から、そしてわれわれの公の行動から、消え失せようとしてゐる。万葉の昔から詩歌こそ、日本人の心と心とをつなぎ、
中原中也
由来芸術と時代との関係は、屡々取扱はれる所ではあるけれどもその問題本来の性質のせゐか、ハツキリとした結論に到達してゐる場合は、極めて稀である。そこで私は今此の問題を全体的に扱はうとする気持をなるたけ自分から排除したいやうに思ふ。その方が却て容易に真実に近づくことが出来るやうに思へるからだ。 扨、現代が芸術にとつて、好都合な時代でないといふことは、漠然と乍ら、
小川未明
物が新しくそこに生れるという事は、古い形が破壊されたということを意味するに他ならない。単に破壊というと不自然のように感ずるけれども、創造というと、人々には美わしい事実のように思われる。若しも古いものが其のまゝ形を変えたものであったなら、それは創造ではないだろう。 即ち存在の意義を別個のものとして、新しく生れるということに於て、創造は私たちに歓喜をよびおこす。
萩原朔太郎
詩の翻訳について 萩原朔太郎 宮森麻太郎氏の英訳した俳句は、外国で非常に好評ださうであるが、その訳詩を通じて、外国人が果して何を感銘したものか疑問である。おそらくは歌劇ミカドを見物して、日本人を理解したといふ程度であり、俳句を HAIKAI として解釈した程度であらう。多くの場合に、外国人に好評される日本の者は、真の純粋の日本ではなく、彼等のフジヤマやゲイシ
中原中也
詩といふものが、人生を打算して生きてゐる根性からは、決して生れるものではない! 一見、その根性は人をして屡々知慧ある態度を採らせるやうに見える。けれど知慧とはそんなものではない! 若しそれが知慧だとしたら、知慧とは千偏一律のもので、千偏一律な知慧なぞといふものが、考へられるか? 私もストイシズムの可なり立派な論拠を知らないものでもない。しかし遂に、ストイシズ
仲村渠
何よりも僕はその表題が好きだ。検温器と花。そつくりこの句を、この詩集のなかに挿入してもいゝ。すくなくとも駄作寡婦などを巻中においておくよりも。作者は短詩のための短詩はとらず、と云ふやうなことを巻末に書いてゐるが、この短詩は所謂寡婦の愚劣なる概念を常識を、たゞ一行に縮図したに止つてゐる。曰「暗く湿つぽい三和土の上で狆が※をした」どんな男でも寡婦と云ふと、小奇麗
高村光太郎
詩の講座のために詩について書いてくれというかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないような心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なおも固辞したものの、結局その書けないといういわれを書くようにといわれてやむなく筆をとります。 ところが、書けないといういわれを書こうとするとこれが又なかなか書けません。なぜ書け
中原中也
L'art, mes enfents, d'tre en soi-meme! Paul Verlaine 芸術とは、喩へば金鉱発掘の如きものだ。金鉱を発掘する人は、親や妻子より遠く、山中に分け入るのだ。そのやうに、芸術とは、自分自身に忠実であることだ。 何を描くべきか?――描くべき何物もない! 芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあ
槙村浩
「われ/\は諷射しよう!」と詩人大江鉄麿は、幅広いこめかみを引きつけて吃りながら言った「保留と伏字の泥沼で、編輯者が自分で自分の評判を悪くしたとき犬の詩を書く代りに書かすことが、ジャーナリズムの紹介業者たちの仕事となっているときわれ/\がみんな真面目な吃りであることを強いられているときわれ/\は正確に、そして効果的に吃ろう! 刺すことは、敵の一卒を倒すだろう