
大町桂月 · Tiếng Nhật
Chua co ban dich. Yeu cau dich de day nhanh tien do.
大町桂月 · Tiếng Nhật
Toàn văn
Ban goc (Tiếng Nhật)
吾嬬の森
大町桂月
夜光命と裸男とに、山神を加へて三人、押上にて電車を下り、東に行くこと三町ばかりにして、柳島の妙見堂に至る。堂は先年火災に罹りたるが、新たに建てられたり。されど、靈松は二つながら枯れて、之に代るもの無し。稻荷に狐、妙見に白蛇、知らず、松の空洞の中の白蛇なほ恙なきや否や。近松門左衞門の碑、歌川豐國埋筆の碑などあり。このあたりに名高き橋本といふ料理店を左に見て、妙見橋を渡り、川に沿うて右折して萩寺に至る。小さき山門に小さき仁王あり。而も石製也。『東京に石の仁王あるは、雜司ヶ谷の鬼子母神と、田端の與樂寺と、瀧野川の金剛寺と、戸塚の亮朝院と、こゝとのみなり』と夜光命説明す。門内に萩の切株五六十あり。『もとはずつと多かりき。眞の名は龍眼寺なるが、萩多き故萩寺と稱す。その萩を植ゑたるに就き二説あり。其の一は、住持博奕を好み、殊に上手なりければ、往いて相手になる者、みな負けて剥取られたり。囚つて世人、剥寺と稱す。後の住持一計を案じ、萩を植ゑて、剥寺を變じて萩寺となしたりと。其の二は、もと此のあたりには追剥多く出でたれば、因つて世人、追剥を略して剥寺と稱す。住持萩を植ゑて、萩寺と稱せしむるに至れりと。二説いづれにしても、禍を轉じて福となす。氣の利きたる住持也。徒然草の榎木僧正とは、あべこべなり』と、夜光命説明すれば、『その榎木僧正とは』と山神問ふ。『良覺僧正とて極めて腹立ち易き坊主あり。坊の傍らに榎木ありければ、世人冷かして榎木僧正といふ。僧正怒りて榎木を切る。切株なほ存す。世人因つて切株の僧正といふ。僧正愈怒りて、其の切株を掘り取る。其の跡池となる。世人因つて堀池の僧正と云へり』と夜光命重ねて説明す。裸男、山神を顧み、『卿も榎木僧正の仲間に非ずや』と云へば、『口が惡い』とて嗔る。『その嗔るが兪以て榎木的なり』と冷かせば、泣きさうになる。裸男歎息して曰く、『女子と小人とは、養ひ難い哉』。
寺男を頼みて、庭の木戸を開けてもらひ、池畔に立てる萩の舍大人落合直文先生の歌碑を見る。其の歌に曰く、
萩寺の萩おもしろし露の身の
おくつき處こゝと定めむ
去つて、龜戸天神に詣づ。府下有數の名祠也。池の中央、賽路に方りて、二つの太鼓橋あり。池には鯉多く、池をめぐりて藤棚相連なる。祠後の梅林無くなり、その代りに藤棚出來て、龜戸天神は益藤の名所也。菅公の生前、さん/″\藤原氏に責められたるに、神となりても、なほ藤責めになるとは、如何なる因縁ぞや。境内に石碑多きが中に、中江兆民翁の碑、殊に人の目を惹く。
枯れ殘りたる臥龍梅を一瞥して去る。東京第一の梅林なりき、水戸義公、臥龍梅と命名したりき。徳川八代將軍、更に代繼梅と命名したりき。明治の初には、皇太后の行啓さへありきなどいふも、死兒の齡を數ふるの類なるべし。木下川梅園も無くなりたり、江東梅園も無くなりたり。江東の地、一に何ぞ梅に祟るや。而して烟突多くなれり。
吾嬬村に至りて、吾嬬神社に詣づ。弟橘姫を祀る。祠の右に楠の大木あり。連理楠と稱す。左に吾嬬森の碑あり。『東京近郊名所圖繪』に據れば、『これ尊王の犧牲となりたる山縣大貳の撰に係る。藤原博古とあるは、大貳刑死の後、神官累の及ばむことを恐れて、斯く刻し換へたる也。下總國葛飾郡吾嬬森碑とあり。その下總の二字に注目せよ。兩國橋の名にも知らるゝ如く、隅田川以東は下總國なりしが、徳川幕府は小利根川以西を武藏國に取入れたり。大貳之を知らざる筈なし。わざと下總としたるは、先王の制に從ひて、尊王の義を表したるなり』と説けり。大貳必ずや地下に首肯せむ。
日暮れむとして、細雨ふりかゝる。裸男と山神とは洋傘を持ちたるが、夜光命は持たず。男同士の相合傘、空しく橋本の前を過ぎて、身を電車に投ず。(大正五年)

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