銭形平次捕物控 008 鈴を慕う女
野村胡堂
「八、あれを跟けてみな」 「ヘエ――」 「逃がしちゃならねえ、相手は細かくねえぞ」 「あの七つ下がりの浪人者ですかい」 「馬鹿ッ、あれはどこかの手習師匠で、仏様のような武家だ。俺の言うのは、その先へ行く娘のことだ」 「ヘエ――、あの美しい新造が曲者なんですかい。驚いたな」 「静かに物を言え、人が聞いてるぜ」 銭形の平次と子分のガラッ八は、その頃繁昌した、下谷
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野村胡堂
「八、あれを跟けてみな」 「ヘエ――」 「逃がしちゃならねえ、相手は細かくねえぞ」 「あの七つ下がりの浪人者ですかい」 「馬鹿ッ、あれはどこかの手習師匠で、仏様のような武家だ。俺の言うのは、その先へ行く娘のことだ」 「ヘエ――、あの美しい新造が曲者なんですかい。驚いたな」 「静かに物を言え、人が聞いてるぜ」 銭形の平次と子分のガラッ八は、その頃繁昌した、下谷
野村胡堂
かねやすまでを江戸のうちと言った時代、巣鴨や大塚はそれからまた一里も先の田舎で、田も畑も、武蔵野のままの木立も藪もあった頃のことです。 庚申塚から少し手前、黒木長者の厳しい土塀の外に、五六本の雑木が繁って、その中に、一基の地蔵尊、鼻も耳も欠けながら、慈眼を垂れた、まことに目出たき相好の仏様が祀られておりました。 もっとも、板橋街道のすぐ傍で、淋しいと言っても
野村胡堂
かねやす迄を江戸のうちと言つた時代、巣鴨や大塚はそれから又一里も先の田舍で、田も畑も、武藏野の儘の木立も藪もあつた頃のことです。 庚申塚から少し手前、黒木長者の嚴めしい土塀の外に、五六本の雜木が繁つて、その中に、一基の地藏尊、鼻も耳も缺け乍ら、慈眼を垂れた、まことに目出度き相好の佛樣が祀られて居りました。 尤も、板橋街道の直ぐ傍で、淋しいと言つても、半町先に
野村胡堂
「やい、八」 「何です、親分」 「ちょいと顔を貸しな」 「へ、へ、へッ、こんな面でもよかったら、存分に使って下せえ」 「気取るなよ、どうせ身代りの贋首ってえ面じゃねえ、顔と言ったのは言葉の綾だ。本当のところは、手前の足が借りてえ」 捕物の名人と謳われるくせに、滅多に人を縛ったことのない御用聞の銭形の平次は、日向でとぐろを巻いている子分のガラッ八にこんな調子で
野村胡堂
「やい、八」 「何です、親分」 「ちょいと顔を貸しな」 「へ、へ、へッ、こんな面でもよかったら、存分に使って下せえ」 「気取るなよ、どうせ身代りの贋首ってえ面じゃねえ、顔と言ったのは言葉の綾だ。本当のところは、手前の足が借りてえ」 捕物の名人と謳われるくせに、滅多に人を縛ったことのない御用聞の銭形の平次は、日向でとぐろを巻いている子分のガラッ八にこんな調子で
野村胡堂
小石川水道端に、質屋渡世で二万両の大身代を築き上げた田代屋又左衛門、年は取っているが、昔は二本差だったそうで恐ろしいきかん気。 「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい」 風呂場から町内中に響き渡るように怒鳴っております。 「ハイ、唯今、すぐ参ります」 女中も庭男もいなかったとみえて、奥から飛出したのは倅の嫁のお冬、外から油障
野村胡堂
小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を築き上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。 「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」 風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴つて居ります。 「ハイ、唯今、直ぐ參ります」 女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子
野村胡堂
「平次、少し骨の折れる仕事だが、引受けてはくれまいか」 若い与力の笹野新三郎は、岡っ引風情の銭形平次に、こんな調子で話しかけました。 「口幅ったいことを申すようで恐れ入りますが、お頼みとあれば、どんな事でも、旦那」 先代から厄介になっている銭形の平次としては、首をくれと言われても、断られた義理ではありません。それに平次も笹野新三郎に劣らず、若さと覇気と、感激
野村胡堂
芝三島町の学寮の角で、土地の遊び人疾風の綱吉というのが殺されました。桜に早い三月の初め、死体は朝日に曝されて、道端の下水の中に転げ込んでいたのを、町内の人達が見付けて大騒ぎになったのでした。 傷というのは、伊達の素袷の背後から、牛の角突きに一箇所だけ、左の貝殻骨の下のあたり、狙ったように心臓へかけてやられたのですから、大の男でも一たまりもなかったでしょう。刺
野村胡堂
芝三島町の學寮の角で、土地の遊び人疾風の綱吉といふのが殺されました。櫻に早い三月の初め、死體は朝日に曝されて、道端の下水の中に轉げ込んで居たのを、町内の人達が見付けて大騷ぎになつたのでした。 傷といふのは、伊達の素袷の背後から、牛の角突きに一箇所だけ、左の肩胛骨の下のあたり、狙つたやうに心臟へかけてやられたのですから、大の男でも一たまりもなかつたでせう。刺さ
野村胡堂
「親分、あっしは、気になってならねえことがあるんだが」 「何だい、八、先刻から見ていりゃ、すっかり考え込んで火鉢へ雲脂をくべているようだが、俺はその方がよっぽど気になるぜ」 捕物の名人銭形の平次は、その子分で、少々クサビは足りないが、岡っ引には勿体ないほど人のいい八五郎の話を、こうからかい気味に聞いてやっておりました。 遅々たる春の日、妙に生暖かさが睡りを誘
野村胡堂
「親分、あつしは、氣になつてならねえことがあるんだが」 「何だい、八、先刻から見て居りや、すつかり考へ込んで火鉢へ雲脂をくべて居るやうだが、俺はその方が餘つ程氣になるぜ」 捕物の名人錢形の平次は、その子分で、少々クサビは足りないが、岡ツ引には勿體ないほど人のいゝ八五郎の話を、かうからかひ氣味に聞いてやつて居りました。 遲々たる春の日、妙に生暖かさが睡りを誘つ
野村胡堂
「親分は、本當に眞面目に聞いて下さるでせうか、笑つちや嫌で御座いますよ」 「藪から棒に、そんな事を言つても判りやしません。もう少し順序を立てて話して見て下さい。不思議な話や、變つた話を聞くのが、言はゞ私の商賣みたいなものだから、笑ひも何うもしやしません」 錢形の平次は、凡そ古文眞實な顏をして、若い二人の女性に相對しました。捕物の名人と言はれてゐる癖に、滅多に
野村胡堂
「親分は、本当に真面目に聞いて下さるでしょうか、笑っちゃ嫌でございますよ」 「藪から棒に、そんな事を言っても判りゃしません。もう少し順序を立てて話してみて下さい。不思議な話や、変った話を聞くのが、言わば私の商売みたいなものだから、笑いもどうもしやしません」 銭形の平次は、およそ古文真宝な顔をして、若い二人の女性に相対しました。捕物の名人と言われている癖に、滅
野村胡堂
「ガラッ八、俺をどこへ伴れて行くつもりなんだい」 「まア、黙って蹤いてお出でなせい。決して親分が後悔するようなものは、お目に掛けないから――」 「思し召は有難いが、お前の案内じゃ、不気味で仕様がねえ。また丹波篠山で生捕りましたる、八尺の大鼬なんかじゃあるまいネ」 捕物の名人銭形の平次と、その子分の八五郎、野暮用で亀井戸へ行った帰り、東両国の見世物小屋へ入った
野村胡堂
「ガラツ八、俺を何處へ伴れて行く積りなんだい」 「まア、默つて蹤いてお出でなせえ。決して親分が後悔するやうなものは、お目に掛けないから――」 「思し召は有難いが、お前の案内ぢや、不氣味で仕樣がねえ。又丹波笹山で生捕りましたる、八尺の大鼬なんかぢやあるまいネ」 捕物の名人錢形の平次と、その子分の八五郎、野暮用で龜戸へ行つた歸り、東兩國の見世物小屋へ入つたのは、
野村胡堂
神田祭は九月十五日、十四日の宵宮は、江戸半分煮えくり返るような騒ぎでした。 御城内に牛に牽かれた山車が練り込んで、将軍の上覧に供えたのは、少し後の事、銭形の平次が活躍した頃は、まだそれはありませんが、天下祭または御用祭と言って、江戸ッ児らしい贅を尽したことに何の変りもありません。 銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂埃を流してサッと夕飯を掻込
野村胡堂
「親分はいらっしゃる?」 「まア、お品さん、しばらくねえ、さア、どうぞ――」 取次のお静は、手を取らぬばかりに、石原の利助の娘で、年増っぷりの美しいお品を招じ入れました。 「何? お品さん、それは珍しいねえ、近頃、兄哥はどうなすったんだ」 銭形の平次も、この珍客の声を聞いて、あわてて浴衣の肌を入れながら出て来ました。妙に蒸し暑い日、八朔はとうに過ぎましたが、
野村胡堂
石原の利助が大怪我をしたという噂を聞いた銭形の平次、何を差措いても、その日のうちに見舞に行きました。 同じ十手捕縄を預かる仲間、昔は手柄を張合った気まずい仲でしたが、利助も取る年でいくらか気が挫けた上、平次の潔白な侠気が、何より先に、娘のお品を動かして、今では身内のように付き合っている二人だったのです。 「兄哥、災難だったそうだね。一体、どうしたことなんだ」
野村胡堂
「親分、美い新造が是非逢はしてくれつて、來ましたぜ」 とガラツ八の八五郎、薄寒い縁にしやがんで、柄にもなく、お月樣の出などを眺めてゐる錢形の平次に聲を掛けました。 平次はこの時三十になつたばかり。江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて來るのは、少し擽ぐつたく見えるやうな好い男でもあつたのです。 「何て顏をするんだ。――何方だか、名前を訊いたか」
野村胡堂
「親分、美い新造が是非逢わしてくれって、来ましたぜ」 とガラッ八の八五郎、薄寒い縁にしゃがんで、柄にもなく、お月様の出などを眺めている銭形の平次に声を掛けました。 平次はこの時三十になったばかり、江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて来るのは、少し擽ったくみえるような好い男でもあったのです。 「なんて顔をするんだ。――どなただか、名前を訊いたか」
野村胡堂
昼頃から降り続いた雪が、宵には小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸の往来もハタと絶えてしまいました。 越後屋佐吉は、女房のお市と差し向いで、長火鉢に顔をほてらせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。 「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」 「お前さん、そんな事を言ったって無理
野村胡堂
「おつと、待つた」 「親分、そいつはいけねえ、先刻――待つたなしで行かうぜ――と言つたのは、親分の方ぢやありませんか」 「言つたよ、待つたなしと言つたに相違ないが、其處を切られちや、此大石が皆んな死ぬぢやないか。親分子分の間柄だ、そんな因業なことを言はずに、ちよいと此石を待つてくれ」 「驚いたなア、どうも。捕物にかけちや、江戸開府以來の名人と言はれた親分だが
野村胡堂
「おっと、待った」 「親分、そいつはいけねえ、先刻――待ったなしで行こうぜ――と言ったのは、親分の方じゃありませんか」 「言ったよ、待ったなしと言ったに相違ないが、そこを切られちゃ、この大石がみんな死ぬじゃないか。親分子分の間柄だ、そんな因業なことを言わずに、ちょいとこの石を待ってくれ」 「驚いたなア、どうも。捕物にかけちゃ、江戸開府以来の名人と言われた親分