すずめの巣
小川未明
ある日のことです。孝吉が、へやで雑誌を読んで、夢中になっていると、 「孝吉は、いないか。」と、おじいさんの呼ばれる声がしました。いつもとちがって、なんだか怒っているようです。 「はてな、どうしたんだろう。なんにもしかられる覚えはないのに。」と、孝吉は、思いました。 「はあい。」と、返事をして、おじいさんのそばへいきました。 「おまえは、私の大事にしているらん
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小川未明
ある日のことです。孝吉が、へやで雑誌を読んで、夢中になっていると、 「孝吉は、いないか。」と、おじいさんの呼ばれる声がしました。いつもとちがって、なんだか怒っているようです。 「はてな、どうしたんだろう。なんにもしかられる覚えはないのに。」と、孝吉は、思いました。 「はあい。」と、返事をして、おじいさんのそばへいきました。 「おまえは、私の大事にしているらん
小川未明
冬の日は、昼過ぎになると、急に光がうすくなるのでした。枯れ残ったすすきの葉が黄色くなって、こんもりと田の中に一所茂っていました。そこは低地で、野菜を作ることができないので、そうなっているのかもしれません。往来からだいぶ離れていましたが、道の方が高いので、よくそのあたりの景色は見下ろされるのでした。晩方になると、すずめたちは、群れをなして、森の中の巣へ帰ってい
小川未明
しろくまは、ほっきょくかいに のぞんだ アラスカ または シベリアに すんで います。しろくまは、水の 中へ はいって およぐ ことも できます。まっ白な けが ふさふさと して、かわいらしい 目を して いますが、それは たけしい けものです。 ある とき、しろくまの ははおやは 子どもたちを つれて、ひょうざんの 上で あそんで いました。 「おかあさん
小川未明
子どもは、つくえにむかって、勉強をしていました。秋のうすぐらい日でした。柱時計は、カッタ、コット、カッタ、コットと、たゆまず時をきざんでいましたが、聞きなれているので、かくべつ耳につきません。それより、高まどの、やぶれしょうじが、風のふくたびに、かなしそうな歌をうたうので、子どもは、じっと耳をすますのでした。 風はときには、沖をとおる汽船の笛とも、調子を合わ
小川未明
あれあれ鳴る、鈴が鳴る。 水で鳴る、空で鳴る、雲で鳴る。 あれあれ鳴る、鈴が鳴る。 路で鳴る、丘で鳴る、森で鳴る。 月夜の晩に、 白い馬が、 銀の鈴を鳴らしてきた。 どこから、どこまで鳴らしてゆく。 西から、東へ、 鳴らしてゆく。 いつから、いつまで鳴らしてゆく。 坊やがおねんねする間。 りんりん、りんりん、 鳴らしてゆく。 ●図書カード
小川未明
長二は貧乏の家に生まれて おもちゃも持たずに 死んでしまった。 美しいガラス張りの店頭に、 西洋のぜいたくな小間物や、 赤、紫に、塗ったゴムまりや ぴかぴかと顔の映る銀笛や、らっぱや、 なんでも子供の好きそうなものが 並べてあるのを見ると、 店のガラス戸を砕いて それらのものをめちゃめちゃにたたき壊してやりたくなる。 隣に住んでいた、 あの貧しかった、哀れな
小川未明
去年の寒い冬のころから、今年の春にかけて、たった一ぴきしか金魚が生き残っていませんでした。その金魚は友だちもなく、親や、兄弟というものもなく、まったくの独りぼっちで、さびしそうに水盤の中を泳ぎまわっていました。 「兄さん、この金魚は、ほんとうに強い金魚ですこと。たった一つになっても、元気よく遊んでいますのね。」と、妹がいいました。 「ああ、金魚屋がきたら、五
小川未明
北の方のある村に、仲のよくない兄弟がありました。父親の死んだ後は兄は弟をば、むごたらしいまでに、いじめました。 弟は、どちらかといえば、気のきかない、おんぼりとした質で、学校へ行っても、あまり物事をよく覚えませんでした。だから、兄は弟をば、つねにばか者扱いにしていたのであります。 弟は気がやさしくて、けっして兄に対して手向かいなどをしたことがありません。いつ
小川未明
夏の昼過ぎでありました。三郎は友だちといっしょに往来の上で遊んでいました。するとそこへ、どこからやってきたものか、一人のじいさんのあめ売りが、天秤棒の両端に二つの箱を下げてチャルメラを吹いて通りかかりました。いままで遊びに気をとられていた子供らは、目を丸くしてそのじいさんの周囲に集まって、片方の箱の上に立てたいろいろの小旗や、不思議な人形などに見入ったのです
小川未明
池の中に水草がありましたが、長い冬の間水が凍っていましたために、草はほとんど枯れてしまいそうに弱っていました。それは、この草にとって、どんなに長い間でありましたでしょう。 そのうちに、やっと春がきまして、氷が解けはじめました。池の水は日に増しぬるんできて、日の光がその面を照らすようになりましたので、水草は、なつかしい太陽をはじめて仰ぐことができました。 太陽
丘浅次郎
このたび本書の新版を出すにあたって、書肆からなるべく多く追加原稿をそろえてつけるようにとの要求を受けたが、前版以後におりおり雑誌上にかかげた文は別に「煩悶と自由」と題して、最近に出版したゆえ、本書に追加すべきものはほとんど一つも残っていない。ただしせっかく新版を出すにあたって、全く旧版のままにしておくことは、なんとなく思想発表の好機を逸するような心持ちを禁じ
丘浅次郎
ここに民種改善学というのは、近来西洋諸国で盛んに用いられるEugenicsという字を訳したものである。この字には善種学とか、優良種族学とか、人種改良学とかいう訳語もあるが、私は数年前から、民種改善学という字をあてて、これが最も適当と考えるから、そのまま用いることにした。この学問は有名なチャールス・ダーウィンの従弟にあたるフランシス・ゴルトンの唱え出したところ
丘浅次郎
人間社会では財産はきわめて大切なもので、ほとんど生命に次いで貴重なものというてよろしい。財産のない者はささいなことさえも容易にはできぬが、財産のある者は勝手次第なことをなして毫もはばからない。ドイツ語で財産のことを Vermgen(なし得る)と名づけるのは全くこのゆえであろう。試みに Ein Mann ohne Vermgen(財産なき男)と書けば「なし得る
丘浅次郎
進化論と衛生という表題を掲げたが、実は生物進化の一大原因なる自然淘汰と衛生との関係について述べたいとおもう。そもそも進化論とは、今日世の中にある生物は動物でも植物でも決してすべて世界開闢のときから今日のとおりの形に造られ、そのまま少しの変化なしに子孫が残って、今日まで伝わったわけではなく、実は最初はなはだ簡単な構造を有する先祖から分かれ降ったもので、つねに漸
丘浅次郎
天真爛漫ともいい、「天に偽りはなきものを」ともいうて、天には偽りはないものと、すでに相場が定まっているようであるが、その天の字を冠らせた天然界はいかにと見渡すと、ここには詐欺、偽りはきわめて平常のことで数限りなく行なわれている。そのもっともいちじるしい例は小学校用の読本にもでているゆえ、普通教育を受けた者なら誰も知っているであろう。 動物には自身を他物に似せ
丘浅次郎
われわれのつねに見慣れている陸上の動物は、犬でも猫でも、鳥でも、雀でもみな一匹ずつ相離れて、おのおの独立の生活をしているゆえ、動物とさえいえば、すべて単独の生活をなすものであるごとき感じが起こるが、広く動物界を調べて見ると、多数相集まって団体を造って生活している種類も決して少なくはない。特に海中に棲む動物には団体生活を営むものがすこぶる多い、また池沼などの淡
丘浅次郎
わが国は今より十数年前に一度支那と戦うて勝ち、また数年前には世界の強国なるロシアと戦うてこれに勝ち、その結果として国の位置が非常に進んで、一等国と称せられるにいたった、これは大いに喜ぶべきことである。しかしながら何事でも名誉が上がれば、それとともに責任も重くなるもので、一等国といわれる位置を保ってますます発展してゆくには、今後はよほどの骨折りを要する。それに
丘浅次郎
人間の身体の内にある種々の器官は、いずれを取ってもその進化の経路を調べて見て、おもしろくないものはないが、その中でも特に脳髄は物を考える道具であるゆえ、それが今日のありさままでに発達しきたった由来を研究することは、学問を修める人等にとってはきわめて興味もあり、かつ有益なことであろう。ここにはただその大略だけを説いて、それより生ずる考えをひととおり述べるつもり
丘浅次郎
善とは何か、悪とは何か、善はなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢の人々の論じたところであるが、昔の賢人の説いたところも、今の学者の論ずるところも、みな万物の霊たる人間についてのことばかりで、他の動物一般に関したことはほとんど皆無のようであるから、この点について日ごろ心に浮
丘浅次郎
日露戦争の始まって以来、どの雑誌もほとんど戦争の話で持切りのありさまで、あるいは海戦陸戦の実況を報じ、あるいは戦時における人民の心得を論じていたが、これは時節柄もっともな次第であった。しかしそのうち、戦時における心得を論じたものを見るに、多くは戦争と平和とを相反するもののごとくに見なし、戦時には平常と異なった特別の心得方が必要であるかのごとくに説いてあるが、
丘浅次郎
教育の書物を開いて見ると「教育トハ一定ノ目的ト方法トヲ具ヘテ教育者ガ被教育者ニ加フル所ノ働作ナリ」などとむずかしい定義を下して、これは人類のみに限るものであると書いてあるが、教育学者の言うところの教育はあるいは人類に限られてあるか知らぬが、教え育てるということは動物界において決して珍しいことではない。元来教育という字の原語の Education, Erzie
丘浅次郎
すべて物は見方によって種々異なって見えるもので、同一の物でも見方を変えると、全く別物かと思われるほどに違って見えることもある。たとえばここにある水呑コップのごときも上から見れば丸いが、横から見るとほぼ長方形に見える。日々世の中に起こる事柄も、ある人はこれを道徳の方面から見、ある人はこれを政治の方面から見、ある人は教育の方面より、ある人は衛生の方面よりというよ
丘浅次郎
世の中には便宜上つねに用いる語で、しかも便宜上、その意味を判然と定めずにおく語がいくらもある。人道なる語もその一つで、列国間にこの語を用いる場合のごときは、あまり深くその定義を穿鑿せぬほうが都合がよろしい。しかしながら一般に個人間に用いるときには、人道なる語は「多少の労力あるいは金銭を費やして他の人あるいは人に近き動物の苦しみを減ずること」すなわち利他同情の
丘浅次郎
科学の中には教育のない人々からつねに誤解せられているものが少なくない。たとえば地質学の教室へ外国人をつれてきて、ここは土壌を分析していかなる作物に適するかを調べるところであると、説明した案内者もある。また日々の天気予報は天文台から出るものと心得て、星学者に向かってそのあまりあてにならぬことを盛んに攻撃しかけた紳士もある。しかしこれらはいずれも極端な例であって