銭形平次捕物控 065 結納の行方
野村胡堂
「親分」 「何だ八、また大変の売物でもあるのかい、鼻の孔が膨らんでいるようだが」 銭形の平次はいつでもこんな調子でした。寝そべったまま煙草盆を引寄せて、こればかりは分不相応に贅沢な水府煙草を一服。紫の煙がゆらゆらと這って行く縁側のあたりに、八五郎の大きな鼻が膨らんでいるといった、天下泰平な夏の日の昼下がりです。 「大変が種切れなんで、ちかごろは朝湯に昼湯に留
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野村胡堂
「親分」 「何だ八、また大変の売物でもあるのかい、鼻の孔が膨らんでいるようだが」 銭形の平次はいつでもこんな調子でした。寝そべったまま煙草盆を引寄せて、こればかりは分不相応に贅沢な水府煙草を一服。紫の煙がゆらゆらと這って行く縁側のあたりに、八五郎の大きな鼻が膨らんでいるといった、天下泰平な夏の日の昼下がりです。 「大変が種切れなんで、ちかごろは朝湯に昼湯に留
野村胡堂
「あツ、ヒ、人殺しツ」 宵闇を劈く若い女の聲は、雜司ヶ谷の靜まり返つた空氣を、一瞬、えこぼれるほど掻き立てました。 「それツ」 鬼子母神の境内から、百姓地まで溢れた、茶店と、田樂屋と、駄菓子屋と、お土産屋は、一遍に叩き割られたやうに戸が開いて、聲をしるべに、人礫が八方に飛びます。 「お吉ぢやないか」 誰かが、路地の口に、ガタガタ顫へてゐる娘の姿を見つけました
野村胡堂
「あッ、ヒ、人殺しッ」 宵闇を劈く若い女の声は、雑司ヶ谷の静まり返った空気を、一瞬、煮えこぼれるほど掻き立てました。 「それッ」 鬼子母神の境内から、百姓地まで溢れた、茶店と、田楽屋と、駄菓子屋と、お土産屋は、一遍に叩き割られたように戸が開いて、声をしるべに、人礫が八方に飛びます。 「お吉じゃないか」 誰かが、路地の口に、ガタガタ顫えている娘の姿を見つけまし
野村胡堂
「親分、こいつは驚くぜ、――これで驚かなかった日にゃ、親分とは言わせねえ」 息せき切って駆けつけたガラッ八の八五郎、上がり框に両手を突いて、「物申し上ぐる型」に長い顔を振り仰ぐのでした。お行儀がよくなったせいではなく、息が切れて、しばらくは後が続かなかったせいでしょう。どもりが疳癪を起したように、一生懸命閾を引っ叩いております。 「何を騒ぐんだ、八」 銭形平
野村胡堂
「親分、あつしはもう癪にさはつて癪にさはつて」 ガラツ八の八五郎は、いきなり錢形平次の前に、長んがい顎を漂よはせます。 よく晴れた秋の日の朝、平次は所在なく雁首を爪繰り乍らあまり上等でない五匁玉の煙草包をほぐして居るのでした。 「何をブリ/\してゐるんだ。腹の立て榮えのする面ぢやないぜ、手前なんか」 一服吸ひ付けて、平次は暫らく薄紫色の煙をなつかしむ風情です
野村胡堂
「親分、あっしはもう癪にさわってさわって」 ガラッ八の八五郎は、いきなり銭形平次の前に、長い顎を漂わせます。 よく晴れた秋の日の朝、平次は所在なく雁首を爪繰りながらあまり上等でない五匁玉の煙草包をほぐしているのでした。 「何をブリブリしているんだ。腹の立て栄えのする面じゃないぜ、手前なんか」 一服吸い付けて、平次はしばらく薄紫色の煙をなつかしむ風情です。 「
野村胡堂
江戸の大通、札差百九人衆の筆頭に据えられる大町人、平右衛門町の伊勢屋新六が、本所竪川筋の置材木の上から、百両もする金銀象眼の竿を垂れているところを、河童に引込まれて死んだという騒ぎです。 その噂を載せて、ガラッ八の八五郎は疾風のごとく銭形平次のところへ飛込んで来ました。 「た、大変ッ」 「何だ、八。帯が半分解けているじゃないか、煙草入をどこへ振り落したんだ」
野村胡堂
「親分、大変なものを拾って来ましたぜ」 八五郎のガラッ八は、拇指を蝮にして、自分の肩越しに入口の方を指しながら、日本一の突き詰めた顔をするのでした。 「何だ、八、小判か、銭か」 銭形の平次は置き炬燵に尻を突込んで黄表紙を拾い読みしていたのです。 「そんな物じゃねえ、人間ですよ、親分」 ガラッ八の真剣さ。 「夜鷹なんか拾って来やがると、勘弁しねえよ。薪雑棒で向
野村胡堂
元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋を渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。 「八、目出度いな」 「へエ――」 ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。 「旦那方の前ぢや、呑んだ酒も身
野村胡堂
元日の昼下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした銭形平次と子分の八五郎は、海賊橋を渡って、青物町へ入ろうというところでヒョイと立止りました。 「八、目出度いな」 「ヘエ――」 ガラッ八は眼をパチパチさせます。正月の元日が今はじめて解ったはずもなく、天気は朝っからの日本晴れだし、今さら親分に目出度がられるわけはないような気がしたのです。 「旦那方の前じゃ、呑んだ
野村胡堂
「親分、何をしていなさるんで?」 ガラッ八の八五郎は、庭口からヌッと長い顎を出しました。 「もう蟻が出て来たぜ八、早いものだな」 江戸開府以来と言われた名御用聞、銭形平次ともあろう者が、早春の庭に踞んで、この勤勉な昆虫の活動を眺めていたのです。 生温かい陽は、平次の髷節から肩を流れて、盛りを過ぎた梅と福寿草の鉢に淀んでおります。 「大層暇なんだね、親分」 「
野村胡堂
「親分、何をして居なさるんで?」 ガラツ八の八五郎は、庭口からヌツと長い顎を出しました。 「もう蟻が出て來たぜ八、早いものだな」 江戸開府以來と言はれた名御用聞、錢形平次ともあらう者が、早春の庭に踞んで、この勤勉な昆蟲の活動を眺めて居たのです。 生温かい陽は、平次の髷節から肩を流れて、盛りを過ぎた梅と福壽草の鉢に淀んで居ります。 「大層暇なんだね、親分」 「
野村胡堂
「親分、山崎屋の隠居が死んだそうですね」 ガラッ八の八五郎は、いつにない深刻な顔をして入って来ました。 「それは聴いた。が、どうした、変なことでもあるのかい」 銭形平次は植木鉢から顔を挙げました。相変らず南縁で、草花の芽をいつくしんでいるといった、天下泰平の姿だったのです。 「変なことがないから不思議じゃありませんか」 「そんな馬鹿なことがあるものか」 「で
野村胡堂
「親分、山崎屋の隱居が死んださうですね」 ガラツ八の八五郎は、いつにない深刻な顏をして入つて來ました。 「それは聽いた。が、どうした、變なことでもあるのかい」 錢形平次は植木鉢から顏を擧げました。相變らず南縁で、草花の芽をいつくしんでゐると言つた、天下泰平の姿だつたのです。 「變なことがないから不思議ぢやありませんか」 「そんな馬鹿なことがあるものか」 「で
野村胡堂
「親分、良庵さんが来ましたぜ」 「ヘエ――、朝から変った人が来るものだね、丁寧に通すがいい」 銭形の平次は居ずまいを直して、客を迎えました。服部良庵という町内の本道(内科医)、頭を円めた五十年輩、黄八丈に縮緬の羽織といった、型のごとき風体です。 「親分、早速だが、大徳屋孫右衛門が死んだことはお聞きだろうね」 良庵はろくに挨拶もせずに、キナ臭そうな顔をするので
野村胡堂
「あッ危ねえ」 銭形の平次は辛くも間に合いました。夜桜見物の帰りも絶えた、両国橋の中ほど、若い二人の袂を取って引戻したのは、本当に精一杯の仕事だったのです。 「どうぞお見逃しを願います」 「どっこい待ちな、――そんな身投げの極り文句なんか、素直に聞いちゃいられねえ」 「死ななきゃならないわけがございます。どうぞ、親分」 争う二人、平次は叩きのめすように、橋の
野村胡堂
「あツ危ねえ」 錢形の平次は辛くも間に合ひました。夜櫻見物の歸りも絶えた、兩國橋の中ほど、若い二人の袂を取つて引戻したのは、本當に精一杯の仕事だつたのです。 「どうぞお見逃しを願ひます」 「どつこい待ちな、――そんな身投げの極り文句なんか、素直に聞いちや居られねえ」 「死ななきやならないわけがございます。どうぞ、親分」 爭ふ二人、平次は叩きのめすやうに、橋の
野村胡堂
「平次、狸穴まで行ってみないか、竹光で武家が一人殺されたんだが――」 与力笹野新三郎は、ちょうど八丁堀組屋敷に来合せた、銭形平次を誘いました。 「旦那が御出役で?」 「そうだよ。浪人者には違いないが、土地では評判の良い人物だ。放ってもおけまい」 八丁堀の与力が出役するのは、余程の大捕物で、いずれは殺された武家の旧藩関係に、厄介なことでもあるのでしょう。 「お
野村胡堂
「平次、狸穴まで行つて見ないか、竹光で武家が一人殺されたんだが――」 與力笹野新三郎は、丁度八丁堀組屋敷に來合せた、錢形平次を誘ひました。 「旦那が御出役で?」 「さうだよ。浪人者には違ひないが、土地では評判の良い人物だ。放つても置けまい」 八丁堀の與力が出役するのは、餘程の大捕物で、いづれは殺された武家の舊藩關係に、厄介なことでもあるのでせう。 「お供いた
野村胡堂
「親分、近頃つくづく考えたんだが――」 ガラッ八の八五郎は柄にもない感慨無量な声を出すのでした。 「何を考えやがったんだ、つくづくなんて面じゃねえぜ」 銭形平次は初夏の日溜りを避けて、好きな植木の若芽をいつくしみながら、いつもの調子で相手になっております。 「大した望みじゃねえが、つくづく大名になりてえと思ったよ、親分」 「何? 大名になりてえ、大きく出やが
野村胡堂
「親分、近頃つく/″\考へたんだが――」 ガラツ八の八五郎は柄にもない感慨無量な聲を出すのでした。 「何を考へやがうたんだ、つく/″\なんて面ぢやねえぜ」 錢形平次は初夏の日溜りを避けて、好きな植木の若芽をいつくしみ乍ら、いつもの調子で相手になつて居ります。 「大した望みぢやねえが、つく/″\大名になりてえと思つたよ、親分」 「何? 大名になりてえ、大きく出
野村胡堂
「親分、このお二人に訊いて下さい」 いけぞんざいなガラツ八の八五郎が、精一杯丁寧に案内して來たのは、武家風の女が二人。 「私は加世と申します。肥前島原の高力左近太夫樣御家中、志賀玄蕃、同苗内匠の母でございます。これは次男内匠の嫁、關と申します」 六十近い品の良い老女が、身分柄も忘れて岡つ引風情の平次に丁寧な挨拶です。 後ろに慎ましく控へたのは、二十二三の内儀
野村胡堂
「親分、このお二人に訊いて下さい」 いけぞんざいなガラッ八の八五郎が、精いっぱい丁寧に案内して来たのは、武家風の女が二人。 「私は加世と申します。肥前島原の高力左近太夫様御家中、志賀玄蕃、同苗内匠の母でございます。これは次男内匠の嫁、関と申します」 六十近い品の良い老女が、身分柄も忘れて岡っ引風情の平次に丁寧な挨拶です。 後ろに慎ましく控えたのは、二十二三の
野村胡堂
荒物屋のお今――今年十七になる滅法可愛らしいのが、祭り衣裳の晴れやかな姿で、湯島一丁目の路地の奥に殺されておりました。 「まア、可哀想に」 「あんな人好きのする娘をねエ」 ドッと溢れる路地の野次馬を、ガラッ八の八五郎、どんなに骨を折って追い散らしたことでしょう。 「えッ、寄るな寄るな、見世物じゃねえ」 遠い街の灯や、九月十四日の宵月に照されて、眼に沁むような