梶井基次郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終壓へつけてゐた。焦燥と云はうか、嫌惡と云はうか――酒を飮んだあとに宿醉があるやうに、酒を毎日飮んでゐると宿醉に相當した時期がやつて來る。それが來たのだ。これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神經衰弱がいけないのではない。また脊を燒くやうな借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音樂も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音器を聽かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し續けてゐた。 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覺えてゐる。風景にしても壞れかかつた街だとか、その街にしても他所他所しい表通よりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあつたりがらくたが轉してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通が好きであつた。雨や風が蝕んでやがて土に歸つてしまふ。と云つたやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家竝が傾きかかつてゐたり――勢ひのいいのは植物だけ
梶井基次郎
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