片山広子 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
三月二十四日にTが亡くなつた。その二日ばかり前に私は彼と会つて一時間ばかり話をした。その時も彼は空襲がだんだんひどくなるから母さんは早く軽井沢に行つた方がよろしい、自分たちもすぐあとから行くからと私を急かしてゐた。もし軽井沢から急に東京に帰れない場合は彼の妻の実家である岐阜県の大井町へ行つてみるつもりらしかつた。急に彼に死なれて私は疎開する気もなくなつたけれど、それから三月ばかり立つて六月中ばにやつとのこと軽井沢に出かけて行つた。 故郷を持たない人たち、つまり東京人種が無数に軽井沢にあつまつて来てゐた。別荘をもつてゐる人たちはその自分の家に住みついて、不自由ながらもどうにか夏の生活をはじめ、私たち宿屋組もいろいろの工夫をして、なるべくふだんの生活に近い暮しをしようとしてゐた。馬鈴薯や林檎を買ひ出しに行つたり、町のすみの店でこつそり紅茶をさがし出して来たり、すしやで売り出したカボチヤランチといふのを買ひしめて宿の女中さんたちに御馳走してみたり、その日その日はものを考へるひまもなく流れた。三度の食事をしてゐれば、ほかの不自由さはどうにか我慢ができた。インキがないから万年筆を持つて宿屋のお帳
片山広子
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