久米正雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
熊といいますと、いうまでもなく恐しい猛獣ですが、熊だって何も好き好んで人を殺すのではありません。人が熊を恐しがるように、矢張熊の方でも人が恐いのです。そして人が来るのを知れば、熊の方で先逃げてくれるのです。けれども両方がふいに出合うか、どうしても顔を合せる外仕方のないような路ででも出合うと、熊も絶体絶命になって、激しく襲い掛るのです。ですから北海道の山道などでは、わざと人様のお通りを知らせるために、豆腐屋かガタ馬車の御者が持つ、あの喇叭を吹いて歩くのです。夕方の青い靄がかかった谷間なぞを、郵便の逓送夫が腰にはピストルをさげ、てとてとてとと喇叭を吹き鳴らしながら、走って行くのはなかなかいいものでございます。 私はある時、一人の行商人から、こういう話を聞きました。その行商人は、十勝の高原のあるところで、夕方、道に行き暮れてしまいました。足は疲れるし、お腹は減るし、どこか人家がないものかと思って、なおも重たい足を引き擦って行きますと、その中に一面の唐黍畑の中へ出ました。見るとその畑の中に、何やら黒く動くものが見えました。もとより人の背よりも高い唐黍が茂っているのですから、何ものだかはっきり分
久米正雄
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