酒井嘉七 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
○月 ○日 私はいつものように、まだ川の面や町全体に深い靄のかかっているうちに朝の散歩を急いだ。人に顔を見られることを、これほど嫌うようになったのも、精神的な病気が昂進しているためであろう。平静に思索することが可能なのは、このミルクの海を泳いでいるような、深い靄の中の散策をつづけている十数分数十分のうちに過ぎない。それとても、突然として白い幕の中から現われる思いがけない人の姿によって破られてしまうことが多い。 自分が好きこのんで住んでいるとはいえ、あの、かつては座敷牢であったことに疑いのない、倉の二階にいる間は、(現在もう肉体の病苦からは逃れているものの)何故か、頭の中の歯車の一つがたえず不規則に動き廻り、私を狂わせずにはおかないと、猛威をふるう。 今朝いつもよりは少し早く、微風にのって静かに流れて行く靄の潮流に流されながら、平静な楽しい散歩をつづけていた。と古い石橋を渡った散髪屋の角で、出合いがしらに誰かとぶ付かりそうになった。何時ものように、私は面をさげて対手に道をゆずった。すると向うもまた私の避けた方へ歩を移す。自分は立ち止った。すると先の男も立ち止る。その動作に何かしらわざとら
酒井嘉七
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