坂口安吾 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
九段坂下の裏通りに汚い下宿屋があつた。冬の一夜、その二階の一室で一人の勤め人が自殺した。原因は色々あつたらうが、どれといつて取立てて言ふほどの原因もない、いはば自殺に適した生れつきの、生きてゐても仕様のない湿つぽい男の一人であつたらしい。第一、書置もなかつたのである。そんなあつさりした死に方が却つて人々を吃驚させたらしいが、その隣室に住んでゐて、死んだ隣人の顔さへ見知らずに暮してゐたといふ図抜けた非社交性と強度の近視眼をもつた一人の大学生だけが、隣室のこんな大事に見世物ほどの好奇心さへ起すことなく寝ころんでゐた。のみならず、こんな出来事があつては当分あの部屋も借手がつかないだらうと宿の者がこぼすのをきいて、大学生はお伽話に合槌を打つやうな静かな声で、そんなら俺が移らうかなと呟いた。別に義侠心を燃したらしい素振りではなく鼻唄のやうな物足りない様子だつたので気にとめる者もなかつたが、自分の部屋へ戻つてくると、この男はほんとにノコ/\隣室へ移つてしまつた。どうといふ確りした理由があつたとは思はれない。全ての挙動が原因不明で物足りない風に見えるくせに、引越してしまふと百年も前から其処に居ついて
坂口安吾
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