坂口安吾 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
矢車凡太が黒谷村を訪れたのは、蜂谷龍然に特殊な友情や、また特別な興味を懐いてゐたためでは無論ない。まして、黒谷村自体に就ては、その出発に先立つて、已に絶望に近いものを感じてゐたのだが、それでも東京に留まるよりはましであると計算して、厭々ながら長い夜汽車に揺られて来たのだ。 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。あの白い雲がうらうらと浮いて、泌むやうな山の季節を感じながら、余儀ない理由で都会に足を留めねばならぬとき、彼は一種神経的な激しい涸渇を感じて、五感の各部に妙な渇きを覚えながら、不図不眠症に犯されてしまふ。特別な理由があるわけではないが、彼の半生を二つの風景が支配してゐた。一つは言ふまでもなく山岳であり、そして他の一つは、あのごもごもとした都会の雑踏であつた。この二つの中へ雑るとき、彼はただ、何といふこともなく確かに雑るといふ実感がして、深く身体の溶け消えてゆく状態を意識することが出来るのであつた。日頃負ふてゐる重荷をも路傍へ落し忘れて、静かにそして百方へ撒かれてゆく軽快なリズムを、耳を澄ませば一種じんじんと冴えわ
坂口安吾
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