寺田寅彦 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだかなつかしいような気がした。黒田が此処に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の二階は何となくなつかしい、昔の香がする。二階と言って別に眺望が佳いのでもなければ、座敷が綺麗だという訳でもない。前にはコケラ葺や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎる。右の方に少しばかり空地があって、その真上に向ヶ岡の寄宿舎が聳えて見える。春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫色に浮き出して見える時などは、これが一つの眺めになったくらいのものである。しかし間近く上野をひかえているだけに、何処か明るい花やかなところもあった。花の時分な
寺田寅彦
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