寺田寅彦 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
熊本高等学校で夏目先生の同僚にSという○物学の先生がいた。理学士ではなかったがしかし非常に篤学な人で、その専門の方ではとにかく日本有数の権威者だという評判であった。真偽は知らないが色々な奇行も伝えられた。日本にたった二つとか三つとかしかない珍しい標本をいくつか持っているという自慢を聞かされない学生はなかったようである。服装なども無頓着であったらしく、よれよれの和服の着流しで町を歩いている恰好などちょっと高等学校の先生らしく見えなかったという記憶がある。それはとにかく、その当時夏目先生と何かと世間話していたとき、このS先生の噂をしたら先生は「アー、Sかー」と云ってそうして口を大きく四角にあけて舌の先で下唇を嘗め廻した。そうして口をつぶってから心持首をかしげるようにしてクスクスとさも可笑しいという風に先生特有の笑い方をした。そういうときに先生はきっと顔を少し赤くして何となくうぶな処女のような表情をするのであった。 その先生の笑いの意味が自分にはよく分らなかった。ただ畸人としてのS先生の奇行を想い浮べて笑われたのだろうというくらいにしか思っていなかった。 それから永い年月が経った。夏目先生が
寺田寅彦
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