寺田寅彦 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
学校の昼の休みに赤門前の友の下宿の二階にねころんで、風のない小春日の温かさを貪るのがあの頃の自分には一つの日課のようになっていた。従ってこの下宿の帳場に坐っていつもいつも同じように長い煙管をふすべている主婦ともガラス障子越しの御馴染になって、友の居ると居ないにかかわらず自由に階段を上るのを許されていた。 ここな二階から見ると真砂町の何とか館の廊下を膳をはこぶ下女が見える。下は狭い平庭で柿が一本。猫がよくこれを伝うて隣の屋根に上るのである。庭へは時々近辺の子供が鬼ごっこをしながら乱入して来ては飯焚の婆さんに叱られている。多く小さい男の子であるが、中にいつも十五、六の、赤ん坊を背負った女の子が交じっている。そしてその大きい目から何からよく死んだ妹に似ているので、あれは何処の娘かと友に尋ねてみた事がある。友の知っているだけでは彼は隣の小さい下宿の娘で、父なる者は今年七十近い爺さんで母はやっと三十くらいだとの事であった。名は雪ちゃんと云った。 その後自分は小石川へ家を持つ事になって、しばらくの間友の下宿へも疎くなっていたが、悲しい事情のために再び家をたたんで下宿住いをしなければならぬ事になった
寺田寅彦
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