徳田秋声 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
新庄はホテルの日本室の寝床のうへでふと目をさました。海岸は風が出て来たらしく、浪の音が高かつた。何かしら訳のわからない不安を感ずるやうな、気持で――勿論それは薄暮の蒼白い部屋の色が、寝起きの頭脳に、彼が盲腸の手術をやつたとき、病院の部屋で魔睡薬がさめかかつて、目をさました瞬間の蒼白い壁の色などの聯想から来たものだことはわかつてゐたが、大体彼は日暮方に眠りからさめると、いつもさうした佗しい気持になるのであつた。今も彼はそれと同じ寂しさのなかに眼覚まされたのであつた。 ふと先刻ステーシヨンまで送つて行つたK子が、昨夜椅子に乗つて電球をくるんだ、紅い縁取の絹ハンケチが、燃えつくやうに目に映つた。暫らく彼の感覚は彼女の悪戯な目や、白い手や、晴やかな声に惹きつけられた。彼は佗しい浪の音を聞きながら、甘い幻想に浸つてゐた。 寝床を離れて、K子がしたやうに椅子を廊下から取込んで来て、電球のハンケチをはづすと、彼はそれを顔に押当てたが、やがてからげた袂の底に押しこんだ。机の上にある体温器を取つて熱を計ると、K子をステイシヨンへ送つたときと略同じ八度近くであつた。K子が見舞にもつて来てくれた黄と赤との薔
徳田秋声
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