萩原朔太郎 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
ながい疾患のいたみも消えさり、 淺間の山の雪も消え、 みんなお客さまたちは都におかへり、 酒はせんすゐにふきあげ、 ちらちら緋鯉もおよぎそめしが、 私はひとりぽつちとなり、 なにか知らねど泣きたくなり、 せんちめんたるの夕ぐれとなり、 しくしくとものをおもへば、 仲よしの友だちうちつれきたり、 卵のごときもの、 菓子のごときもの、 林檎のごときものを捧げてまくらべにもたらせり、 ああ、けれども私はさびしく、 いまはひとりで旅に行く行く、 ながい病氣の巣からはなれて、 つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ、 つばめのやうに快活に、 とんでゆく、とんでゆく。 けふ利根川のほとりに來てみれば、 しだいに春のめぐみを感じ、 雪わり草のふくめるやうに、 つちはうららにもえあがり、 西も東も雪とけながれ、 めんめんとして山峽にながれ、 光り光れる山頂さへ、 ひろごる桑の畑さへ、 さびしい病人の涙をさそふよ、 しみじみとおもへば、 故郷の冬空はれ、寂しくて寂しくてたへざれば、 いまはいつさいのものと別れをつげ、 あしたはれいの背廣を着、 いつもの輕い靴をはき、 まだ見も知らぬ南の海へあそばうよ、
萩原朔太郎
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