長谷川時雨 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
大橋須磨子 長谷川時雨 霜月はじめの、朝の日影がほがらかにさしている。澄みきった、落附いた色彩と香があたりに漂い流れている。 朝雨にあらわれたあとの、すがすがしい空には、パチパチと弾ける音がして、明治神宮奉祝の花火があがっている。小禽が枝から飛立つ羽ぶきに、ふち紅の、淡い山茶花が散った。 今日中にはどうしても書いてしまわなければならないと思いながら、目のまえの一本か二本の草木をながめ、引窓からながめるような空の一小部分を眺めて、ぼんやりとしている。 けれど、秋の香は、いつまでわたしをそのままにしておかなかった。菊のかおりが、ふと心をひくと、頭の底の方で鼓の音が丁と響ききこえた。爽かに冴えた音は、しんと頭を澄ませてくれた。それにつれて清朗な笛の音も聞える。そして、湿やかに、なつかしみのある三味線の音もあった。 ごしゃごしゃと、乱れた想で一ぱいだったと思った頭のなかは、案外からっぽだったと見えて、わたしは何時かよい気持ちになって、ある年のある秋の日に、あの広々した紅葉館の大広間にいて、向うの二階の方から聞えてくるものの音に、しんみりと聞き耽けっていたのが、いま目前に浮びあがって、その音曲の
長谷川時雨
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