長谷川時雨 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
マダム貞奴 長谷川時雨 一 人一代の伝を委しく残そうとすれば誰人を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は波瀾万丈、我国新女優の先駆者であり、泰西の劇団にもその名を輝かして来た、マダム貞奴を、細かに書いたらばどれほど大部の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を聴いて、それを忠実な自叙伝ふうな書き方にしてゆきたいと願った。 けれどもそれはまた一方には至難な事でもあった。芸術の徒とはいえ、彼女は人気を一番大切にと心がけている女優であり、またあまり過去の一切をあからさまにしたくない現在であるかも知れない。彼女の過去は亡夫川上音二郎と共に嘗めた辛酸であった。決して恥ずかしいことでも、打明けるに躊躇するにもおよばぬものと思うが、女の身として、もうすでに帝都隠退興行までしてしまったあととて、何分世話になっている福沢氏への遠慮なども考慮したかも知れないが、その前にも二、三度逢ったおり言ってみたが、微笑と軽いうなずきだけで、さて何日になっても日を定めて語ろうとした事のなかったのは、全くあの人にとっても遺憾なことであった。私は
長谷川時雨
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