北条民雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
あれからもう三年経つた。考へて見ると、今更のやうに月日の速さに驚かされる。しかしあれはなんといふ奇怪な事件だつたことだらう。あれがあつてからまだ日の経たない時は、どうしたのか私はそれがさほどに陰惨な事件だとも思はないでゐた。ところが日が経つにつれて、私の思出の中で次第に陰惨な、いはば一種の凄みを帯びて来るのだ。とりわけこの頃では、眠られない夜など――私は毎晩眠られない夜を過してゐる――思はず叫び声をあげて誰かを呼びたいほどだ。記憶といふものは、それが宿された頭の中で、絶えず成長して行くものに違ひない。 ところで、私は今は結核サナトリウムの一室で寝たきりの生活を送つてゐる。もう間もなく息をひき取つてしまふに相違ないのだ。私の肺臓は、右も左ももう殆ど腐つてしまつた。そしてまだ残されてゐる、ほんの一破片でからうじて呼吸をしてゐる有様なのだ。私は肺病患者がどんな風にして死ぬかよく心得てゐる。ここへ来てからでも、もう幾つもさういふ死に方を見たのだ。中には癩病よりも浅ましい死に方をするのもある。全身に菌が巡つて、鼻も耳も腸も役に立たなくなつて死ぬのもあれば、たつた一言も物を言へなくなつて死ぬのもあ
北条民雄
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