北条民雄 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
どんよりと曇つた夕暮である。 省線の駅を出ると、みつ子はすぐ向ひの市場へ這入つて今夜のおかずを買つた。それを右手に抱いて、細い路地を幾つも曲つて、大きな工場と工場とに挟まれた谷間のやうな道を急ぎ足で歩いた。今日は会社で珍しく仕事が多かつたので、まだタイプに慣れない彼女の指先はひりひりと痛みを訴へたが、それでも何か浮き浮きと楽しい気持であつた。こんな気持を味ふのも、もう何年振りであらう、ふとそんな感慨が彼女の頭に浮ぶのである。これからは少しづつでも自分達の生活を良くしなくちやあ、ここ二三年の生活はあまりにみじめであつた――。しかし彼女はふと夫の山田の顔を思ひ出すと、瞬間何故ともなく不安な気持に襲はれた。またあんな苦しい生活が来るのではあるまいか、といふ暗い予感が自然と頭に流れて来るのだ。が彼女は急いでその不吉な考へをもみ消すと、夏までにはもつと上等なアパートへ引越さうか、いやそれよりも今はもつと辛抱して来年になつたら家を持たう、それまでは出来る限り切りつめてお金をためよう、などと考へ耽るのであつた。 彼女は足をとめた。没落者、ふとさういふ言葉を思ひ出したのである。彼女は口許に薄つすらと微
北条民雄
翻訳状況
待機中ログイン後に翻訳をリクエストできます。
よくある質問
Yes — completely free. This book is in the public domain, so Pagera offers the full text without payment or account requirement. Pagera is funded by advertising.
無料でご利用いただけます
会員登録なしですぐに読み始められます。さらに多くの書籍と機能は無料会員登録後にご利用いただけます。